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シンメトリーの翼 〜天帝異聞奇譚〜  作者: 長月京子
第五話(最終話) 相称の翼

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第六章:三 黒麒麟(くろきりん)の咎(とが)

 意識を手放すことができたら、どれほど楽になれるだろう。麒一(きいち)は滲み出した後ろ向きな思考に、はっと気を引き締めた。脳天を貫くような痛みには慣れてきた。あるいは傷が塞がるように、折れた麒角(きかく)の衝撃に身体が馴染み始めたのだろうか。痛みには耐えられる。


 問題は視界が朦朧(もうろう)としていても、キンと張りつめた意識だった。折れて失われたはずの麒角から、克明に感じる気配。まるで意識が麒角へ移ってしまったのではないかと思うほど、鮮明に(あるじ)の苦痛を伝えてくる。


 自分の魂魄(いのち)にも代えがたい主の身を傷つけ、侵しているという事実。麒一には耐え難い現実だった。なりふり構わず咆哮をあげて、のたうち回りたい衝動に駆られる。


 しくじったのだと理解するまで、ひどく時間がかかった気がする。何が起きたのか、今でもわからない。同胞は無事なのだろうか。麟華(りんか)だけでも主の元に戻っていてほしい。何かに縋り、頼ることをしない麒一が、ただ横たわって懇願するしかなかった。


(――我が君)


 自分たちにとって至高の存在。その身を裂いて、ぬるりと暖かいものが麒角(きかく)にまとわりついている。主の熱であることは語るまでもない。


「グゥ」


 克明に全てを感じるのに、やはり麒角は身から失われているのだろう。人型に変幻することもかなわず、ただ獣の唸りが喉を震わせるだけだった。


 黒麒麟(くろきりん)であるという誇りと共に、自身(じしん)の力を過信していた。この世に主を、主の守護である自分達を追い詰める力などないのだと考えていた。


 そう、相称の翼以外には。


(いったい、どういうことだろう)


 痛々しい程に感じる、禍々(まがまが)しく張りつめた力。悪意に塗り固められた()。主の持つ呪鬼(じゅき)とは何もかもが違う。しかし、麒一(きいち)には主である闇呪(あんじゅ)以外が、()()べるとも思えない。


 天籍(てんせき)の者に与えられるのは礼神(らいじん)

 それは等しく闇呪(あんじゅ)にも与えられていたが、呪鬼じゅきは与えられるものではない、というのが麒一の発想だった。


 麒一の目には、呪鬼は初めから主に与えられていたわけではないと、そう映っていた。生まれながらに力として(たずさ)えていたわけでもない。

 どちらかというと、呪いのようなものだった。呪いに囚われて生きる。それが(わざわい)の宿命なのだろうと、哀しい思いで受け止めてきた。


 主の身に架せられた宿命。


 麒一(きいち)麟華(りんか)には、(ことわり)がよくわからない。思えば自分達も同じように呪われているのだろう。主への忠誠以外には、何も持たない。どうすることもできなかった。()の襲撃に立ち向かい、主がただ負の感情だけを肥大させてゆく日々。決して自分達の名を呼ばれることもなく。


 けれど、まだ幼い主に、決して欠けてはならない想いを教えるものが現れた。彼女は誰もが恐れる主を心から慈しみ、ただ傍にあってくれた。

 時折、麒一と麟華を見つめた、濃紫の瞳。穢れに染まらぬ澄んだ色。


 朔夜(さくや)と主のことは、麒一も一部始終を見ていた。主が鬼を統べる術を開花させた瞬間。

 それは主にとっては、世界を失うに等しい別れと共に、手に入れた新たな力だった。


 呪鬼(じゅき)


 礼神(らいじん)とは、根源的に異なる力。悪意を、あらゆる負の感情をなだめるかのような、哀しく穏やかな術。鎮魂にも似た非力な力だったが、礼神には恐ろしい程の威力を発揮した。

 呪鬼と礼神。相反する力は見事に相殺する。


 闇呪(あんじゅ)の持つ呪鬼は、悪意を鎮めるような静謐な力だが、いま麒一を封じている鬼は、激しく禍々しい。怒号(どごう)のような怨嗟(えんさ)のような、限りなく負の作用を増幅させた呪い。屈服を強いるだけの圧倒的な力だった。


(……動けない)


 動けないだけではなく、気力も蝕まれているような何とも言えない喪失感があった。


「主を乞うか?」


 突然世界に響いた声に、麒一は意識を向ける。自分が何を見ているのか、何を聞いているのかも、よくわからない。


「よくぞ、ここまで破滅に至らず持ちこたえたことよ」


 聞き覚えのある甘い声音だが、麒一にはそれが誰の声だったのかを考える力が失われていた。いまも主の苦痛だけが、よせては消す波のように鮮明に押し寄せる。

 ふっとどこかで渦巻いた嘲笑が風になる。


「やはり先守(さきもり)の仕業であろうか。取るに足らぬ無駄な足掻きじゃ。このような、つまらぬ世界のために」


 ふわりと傍らで何かが揺れる。麒一には何も正視できない。覚えのある芳香にふれると、気持ちがぞっと凍り付いた。麒角(きかく)から伝わる痛々しい熱以外、すべてが朦朧としている感覚に、わずかに明瞭さが戻った。


「グゥウウ」


 名を呼んだつもりだったが、言葉にならない。


(――ああ、やはりそうだったのか!)


 自分達の本能が、決して馴染むことを許さなかった存在。けれど主が心から愛し慕っていた時期があったのを知っている。だから、ただ何も言わずに見守った。


 少しずつ主の心が離れて行くたびに、麒一は安堵した。

 主が朱桜(すおう)への想いで心を染めた時、喜びと共に、警戒を解いた。


(我らの過ちだ)


 本能の示す嫌悪を無視した自分達に(とが)がある。守護としてあるまじき見落とし。


(――華艶(かえん)の美女)


 主の理想だった女人。幼い主を慈しみ、支えていたのは間違いがない。

 華艶の慈悲は、慈愛は、全て偽りだったというのだろうか。


(なぜ?)


「だが、そなたらの主は、先代ほど愚かではないらしい」


(――何の話だ)


「今となっては、(わらわ)の姿は人々の理想を映す鏡。欲望に触れ、誰もが欲しくなる境地のもの。この想いを与え、この身体を与え、籠絡(ろうらく)できぬ者はない」


 空気が震えるのがわかる。彼女は(わら)っているのだ。


「ないはずであったが、そなたらの主はこの身に溺れることも、嫉妬に狂うこともなかったのぅ。女としては口惜しい」


 哄笑のような空気の振動が、鮮明さを失っている麒一の感覚を逆なでる。


「だが、先代のように色欲に溺れ、破滅に至った方が幸せであったかもしれぬ」


「グゥ」


 腹立たしさに声をあげても、低く無様な咆哮が響くだけだった。


「そなたらの主は、呪鬼(じゅき)を統べる稀有(けう)さを併せ持ち、どこまでも(わらわ)を驚かせくれた。しかし、それでこそ託しがいがあるというもの」


 空気が動く。麒一は目の前を華艶がよぎったのではないかと首をもたげるが、禍々しい檻に囚われたように、何も掴めない。

 華艶は嗤い続けているのか、震える風が広がっていく。


相称(そうしょう)(つばさ)。まさかそのような僥倖(ぎょうこう)に恵まれようとは」


「グォウ」


(わらわ)にとっては、ようやく手に入れた終焉への布石。誰かがが申しておったのぅ。陛下には心がある。そして翼扶(つばさ)を得たことが希望だと」


 爆発的な風が巻き起こった。感覚を失った耳で、遠くに哄笑を聞いた気がした。


(わらわ)はおかしくてたまらぬわ」


「グゥゥ」


「心があるなら、さぞや痛みがわかるであろうなぁ」


 再びぞっと凍り付くような(うず)が押し寄せる。


「その至高の心の内に、最悪の情景を余すことなく映してやろう。翼扶(つばさ)の受けた仕打ちを。あの懇願の悲鳴。容赦なく犯される身体。(わらわ)は余すことなく知らしめてやれる。呪鬼を統べる身で、これ以上はない悪意に心を動かされ、いったい何が起きるのか、楽しみでならぬ」


(何を? 我が君に、いったい何を望む?)


(わらわ)の悲願を、そなたらの主は成し遂げてくれるであろう」


(――悲願?)


「心在る者を絶望させることはたやすい。それが、この世を破滅に導いてくれよう」


 ぶわりと大きく風が舞い、止まった。さっきまでそこにあった何かが消えたのだと、麒一にもわかった。

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