第六章:三 黒麒麟(くろきりん)の咎(とが)
意識を手放すことができたら、どれほど楽になれるだろう。麒一は滲み出した後ろ向きな思考に、はっと気を引き締めた。脳天を貫くような痛みには慣れてきた。あるいは傷が塞がるように、折れた麒角の衝撃に身体が馴染み始めたのだろうか。痛みには耐えられる。
問題は視界が朦朧としていても、キンと張りつめた意識だった。折れて失われたはずの麒角から、克明に感じる気配。まるで意識が麒角へ移ってしまったのではないかと思うほど、鮮明に主の苦痛を伝えてくる。
自分の魂魄にも代えがたい主の身を傷つけ、侵しているという事実。麒一には耐え難い現実だった。なりふり構わず咆哮をあげて、のたうち回りたい衝動に駆られる。
しくじったのだと理解するまで、ひどく時間がかかった気がする。何が起きたのか、今でもわからない。同胞は無事なのだろうか。麟華だけでも主の元に戻っていてほしい。何かに縋り、頼ることをしない麒一が、ただ横たわって懇願するしかなかった。
(――我が君)
自分たちにとって至高の存在。その身を裂いて、ぬるりと暖かいものが麒角にまとわりついている。主の熱であることは語るまでもない。
「グゥ」
克明に全てを感じるのに、やはり麒角は身から失われているのだろう。人型に変幻することもかなわず、ただ獣の唸りが喉を震わせるだけだった。
黒麒麟であるという誇りと共に、自身の力を過信していた。この世に主を、主の守護である自分達を追い詰める力などないのだと考えていた。
そう、相称の翼以外には。
(いったい、どういうことだろう)
痛々しい程に感じる、禍々しく張りつめた力。悪意に塗り固められた鬼。主の持つ呪鬼とは何もかもが違う。しかし、麒一には主である闇呪以外が、鬼を統べるとも思えない。
天籍の者に与えられるのは礼神。
それは等しく闇呪にも与えられていたが、呪鬼は与えられるものではない、というのが麒一の発想だった。
麒一の目には、呪鬼は初めから主に与えられていたわけではないと、そう映っていた。生まれながらに力として携えていたわけでもない。
どちらかというと、呪いのようなものだった。呪いに囚われて生きる。それが禍の宿命なのだろうと、哀しい思いで受け止めてきた。
主の身に架せられた宿命。
麒一と麟華には、理がよくわからない。思えば自分達も同じように呪われているのだろう。主への忠誠以外には、何も持たない。どうすることもできなかった。鬼の襲撃に立ち向かい、主がただ負の感情だけを肥大させてゆく日々。決して自分達の名を呼ばれることもなく。
けれど、まだ幼い主に、決して欠けてはならない想いを教えるものが現れた。彼女は誰もが恐れる主を心から慈しみ、ただ傍にあってくれた。
時折、麒一と麟華を見つめた、濃紫の瞳。穢れに染まらぬ澄んだ色。
朔夜と主のことは、麒一も一部始終を見ていた。主が鬼を統べる術を開花させた瞬間。
それは主にとっては、世界を失うに等しい別れと共に、手に入れた新たな力だった。
呪鬼。
礼神とは、根源的に異なる力。悪意を、あらゆる負の感情をなだめるかのような、哀しく穏やかな術。鎮魂にも似た非力な力だったが、礼神には恐ろしい程の威力を発揮した。
呪鬼と礼神。相反する力は見事に相殺する。
闇呪の持つ呪鬼は、悪意を鎮めるような静謐な力だが、いま麒一を封じている鬼は、激しく禍々しい。怒号のような怨嗟のような、限りなく負の作用を増幅させた呪い。屈服を強いるだけの圧倒的な力だった。
(……動けない)
動けないだけではなく、気力も蝕まれているような何とも言えない喪失感があった。
「主を乞うか?」
突然世界に響いた声に、麒一は意識を向ける。自分が何を見ているのか、何を聞いているのかも、よくわからない。
「よくぞ、ここまで破滅に至らず持ちこたえたことよ」
聞き覚えのある甘い声音だが、麒一にはそれが誰の声だったのかを考える力が失われていた。いまも主の苦痛だけが、よせては消す波のように鮮明に押し寄せる。
ふっとどこかで渦巻いた嘲笑が風になる。
「やはり先守の仕業であろうか。取るに足らぬ無駄な足掻きじゃ。このような、つまらぬ世界のために」
ふわりと傍らで何かが揺れる。麒一には何も正視できない。覚えのある芳香にふれると、気持ちがぞっと凍り付いた。麒角から伝わる痛々しい熱以外、すべてが朦朧としている感覚に、わずかに明瞭さが戻った。
「グゥウウ」
名を呼んだつもりだったが、言葉にならない。
(――ああ、やはりそうだったのか!)
自分達の本能が、決して馴染むことを許さなかった存在。けれど主が心から愛し慕っていた時期があったのを知っている。だから、ただ何も言わずに見守った。
少しずつ主の心が離れて行くたびに、麒一は安堵した。
主が朱桜への想いで心を染めた時、喜びと共に、警戒を解いた。
(我らの過ちだ)
本能の示す嫌悪を無視した自分達に咎がある。守護としてあるまじき見落とし。
(――華艶の美女)
主の理想だった女人。幼い主を慈しみ、支えていたのは間違いがない。
華艶の慈悲は、慈愛は、全て偽りだったというのだろうか。
(なぜ?)
「だが、そなたらの主は、先代ほど愚かではないらしい」
(――何の話だ)
「今となっては、妾の姿は人々の理想を映す鏡。欲望に触れ、誰もが欲しくなる境地のもの。この想いを与え、この身体を与え、籠絡できぬ者はない」
空気が震えるのがわかる。彼女は嗤っているのだ。
「ないはずであったが、そなたらの主はこの身に溺れることも、嫉妬に狂うこともなかったのぅ。女としては口惜しい」
哄笑のような空気の振動が、鮮明さを失っている麒一の感覚を逆なでる。
「だが、先代のように色欲に溺れ、破滅に至った方が幸せであったかもしれぬ」
「グゥ」
腹立たしさに声をあげても、低く無様な咆哮が響くだけだった。
「そなたらの主は、呪鬼を統べる稀有さを併せ持ち、どこまでも妾を驚かせくれた。しかし、それでこそ託しがいがあるというもの」
空気が動く。麒一は目の前を華艶がよぎったのではないかと首をもたげるが、禍々しい檻に囚われたように、何も掴めない。
華艶は嗤い続けているのか、震える風が広がっていく。
「相称の翼。まさかそのような僥倖に恵まれようとは」
「グォウ」
「妾にとっては、ようやく手に入れた終焉への布石。誰かがが申しておったのぅ。陛下には心がある。そして翼扶を得たことが希望だと」
爆発的な風が巻き起こった。感覚を失った耳で、遠くに哄笑を聞いた気がした。
「妾はおかしくてたまらぬわ」
「グゥゥ」
「心があるなら、さぞや痛みがわかるであろうなぁ」
再びぞっと凍り付くような渦が押し寄せる。
「その至高の心の内に、最悪の情景を余すことなく映してやろう。翼扶の受けた仕打ちを。あの懇願の悲鳴。容赦なく犯される身体。妾は余すことなく知らしめてやれる。呪鬼を統べる身で、これ以上はない悪意に心を動かされ、いったい何が起きるのか、楽しみでならぬ」
(何を? 我が君に、いったい何を望む?)
「妾の悲願を、そなたらの主は成し遂げてくれるであろう」
(――悲願?)
「心在る者を絶望させることはたやすい。それが、この世を破滅に導いてくれよう」
ぶわりと大きく風が舞い、止まった。さっきまでそこにあった何かが消えたのだと、麒一にもわかった。




