第六章:二 暁の屈託
暁は速足に渡殿を戻りながら、赤の宮ーー緋桜の思いを酌んで口を閉ざしていることが正しいのかどうかを考えていた。
女王の命に背くことなど許されないが、どうしても割り切れない。
緋桜が娘を愛し、気遣う気持ちはわかる。自分が朱桜や緋桜に抱く気持ちにも、母性に通じるものがあるだろう。
だからこそ、自分は歯がゆさに苛まれているのだ。
この先の展開を思うからこそ、緋桜は娘に真実を語らない。
けれど、暁はその先途を打ち明けられたからこそ、緋桜の想いが朱桜に届かないまま見届けることを快諾できない。
朱桜にとっても、それが最善であるとは思えない。
屈託を抱えたまま、暁は闇呪の横たわる隣室の座敷に食事の支度を整えた。その旨を伝えるため朱桜達の元へ赴くと、碧宇と白虹がぼそぼそと低く何かを語り合っている。
相称の翼となった朱桜は透国の皇女と闇呪を挟むようにして向かい合い、麒角を引き抜く手立てがないかを考えているようだった。
暁が声をかけると、一斉に視線がこちらに集中する。座敷に食事の支度が整っている旨を伝えるが、朱桜は闇呪の傍を離れない。
白虹が碧宇と共にやって来て、朱塗りの高坏ごと朱桜の前に運ぼうとする。
「白虹様、そのようなことは私が」
「私に気遣いは無用ですよ」
涼しげに微笑みながら、白虹は呆気に取られる暁の前を横切っていく。暁はさらにぎょっとたじろいだ。妹皇女である玉花も自分の膳を抱えている。
「私も朱桜の姫君の隣でいただきます」
「玉花様まで」
「あら? 暁殿、そんなに驚かないで下さい。大兄は隠居生活ですっかり身の回りのことはご自分でなさる習慣がありますし、私も異界の作法に洗脳された翡翠様の影響を受けて、大兄と変わりません。風変わりとお思いでしょうが、これが普通なんです」
「あ、はぁ」
にっこりと笑う玉花にどんな返答をすべきかわからないまま、朱桜に目を向けると、相称の翼という立場には不似合いな程、膳を運んで来た白虹に恐縮している様が見て取れた。
暁は変わらない朱桜の素直さに心が緩む。
同時に、彼女の幸せを願うのは緋桜だけではないと、競り上がってきた思いが、チクリと暁の心の裏を刺した。
「暁殿」
朱桜の様子を見守っている暁の背後から、不意に囁くような声音が響く。思わずびくりと身動きしそうになるのを堪えて、暁は平常を装って振り返る。
「碧宇様、いかがなさいましたか?」
「貴殿からは、色々面白い話が聞けそうだな。少しこちらで我々の相手をしてくれないか?」
どこか揶揄うような色を含んだ調子で、碧宇が隣室を示す。白虹も朱桜の前から隣室へ戻り、暁が整えた席にゆっくりと座した。緋国では見られない灰褐色を帯びた瞳が、理知的な煌めきを宿して、暁に向けられていた。
英明な王子と聡明な皇子。二人に挟まれて、暁は掌に汗が滲んだ。自身が抱く屈託を見抜かれているのではないかと緊張が高まる。できるだけ心を鎮めるよう努めながら、暁は碧宇の希望に応えて、設けた席についた二人の側へ寄った。
暁が二人の前に座すと、碧宇が他愛ないことを語る呆気なさで、緋国の秘密を暴いた。
「朱桜の姫君ーー陛下は、赤の宮の娘だろう? なぜ女王は陛下にまでそのことを秘める?」
さすがの暁も返す言葉を失う。取り繕う術を模索していると、白虹が穏やかな声で追い打ちをかけた。
「本人に打ち明けると、何かまずいことでもあるのですか?」
完全に朱桜を女王の娘であると断定している様子の二人に、暁はうまく反応できない。表情だけは何とか普段の面を保っているが、話をはぐらかすための筋道が見えてこないのだ。
「お二方の酒の肴は、私には務まらないようです。何か趣向のあるものでもお持ちいたしましょうか」
座を離れようとすると、碧宇がはははと声をあげて笑った。
「さすが女王の御付だな。でも安心するが良い。陛下の出自は女王が自ら私に教えてくれた。今さら貴殿が口を閉ざす必要もない」
「そんなご冗談は」
「どうやら女王よりも貴殿の方が強情だな。いや、臣下としての矜持か。それは見事だが、女王も人だ。振る舞いの全てが正しいとは限らないぞ。もし貴殿に含むところがあるのなら、時には導くのも臣下の務めだ」
あまりにも全てを見透かした碧宇の言い様に、暁はふっと諦めにも似た気の緩みを感じた。この王子に自分ごとき者が、何かを誤魔化せるはずがない。思わずほぅっと嘆息が漏れた。
「碧宇の王子は、噂に違わぬお方ですね」
「それは誉め言葉か?」
やりとりを眺めていた白虹が白銀の袖で口元を抑えて、くすりと笑っている。
暁は二人を前に降参する。これも何かの縁ではないかと言う思いが、言い訳としてではなく胸の内に滲み出していた。
「私が申し上げるのも恐れ多いですが、女王はいまさら陛下に親子の名乗りをあげても意味がないとお考えです。悪戯に陛下のお気持ちを煩わせるような必要はないと」
「陛下が女王の想いを迷惑に感じるとは思えませんが……」
白虹がここからでは窺うことのできない隣室にちらりと視線を移す。暁は黙ってうなずく事しかできない。白虹が少し物憂げに目を伏せた。
「女王には女王の考えがあるのでしょうが、私はすこし寂しい気がしますね。陛下ならきっとお喜びになるでしょう」
「そうだな。出自が緋国の汚点ではないと知るだけでも、救われる気持ちがあるだろう。それに後々暴かれないとも限らん」
暁はハッとした。たしかに陛下なら、これから出自の真実に触れることがあるのかもしれない。すでに緋国で愛称も与えられなかった哀れな姫君ではなく、相称の翼なのだ。表舞台に在り続ける身であれば、詮索する者もあるだろう。
後々になって、真実が耳に入ればどうなるのか。きっと朱桜は悔やむに違いない。
暁が碧宇を見ると、彼は再び全てを察したかのような、意味ありげな微笑を浮かべた。
「赤の宮は毅然とした女王だ。だからといって完璧ではない。女王が貴殿に見せた弱さ。それを補うのも臣下の務めだ」
「宮の弱さ」
「私には、そんなふうにも見えるが」
白虹の視線を感じてそちらを向くと、彼も静かに頷いた。
これから訪れる女王の破滅を王子も皇子も知らない。誰も知らない。緋桜が心に秘めた、静の予言。かけがえのない約束。彼女はずっと見つめ続け、覚悟をもって歩んできたのだ。全てを打ち明けられた時、暁は緋桜の強さを噛み締めた。
その緋桜の、弱さ。暁には見えていなかった。
たしかにそうだ。女王が先途のことを考えなかったはずはない。目先の哀しみに囚われて、見落としている。あるいは目を背けている。きっと、最期の時に自分のために悲嘆にくれる朱桜を見たくはないのだろう。娘の泣き顔を見ながら、去りたくはないのだろう。
「私は、臣下として務めを果たすべきですね」
もう暁に迷いはなかった。陛下ーー朱桜にどのように伝えるべきなのか。それだけを考えていた。




