第四章:二 鬼門から天界へ
今まで幾度となく裏鬼門を渡って来た彼方だったが、鬼門を超えるのは初めての経験だった。天宮学院に入って中庭を進むうちに、これまでと何かが異なっていることに気付いた。彼方は以前忍び込んだ立ち入りを禁じられた抜け道から鬼門へ繋がるのだと考えていたが、あっさりと裏切られてしまう。
いつのまにか見たこともない場所に立っている。遥の結界で目眩しが行われているだけで、学院自体が自由に鬼門に繋がるのではないかと感じた。
不思議な感覚のまま視線を投げると、向こう側に影が立ち昇っているのが見える。
通常の距離感を無視して、ふいに暗黒の渦巻く宙が目前に迫ってきた。
(これが、鬼門……)
全てを呑み込んでしまいそうな迫力を漲らせて、闇が淀んでいる。雪がそっと身を寄せてくる気配がした。恐れてしまうのも無理はない。
「副担任と初めて出会った抜け道って、何のためにあったの?」
雪の恐れを払拭できないかと、彼方はわざと明るい声を出した。
場違いな問いかけだと自覚していたが、暗黒の宙を眺めたまま、遥は答えてくれる。
「人の好奇心を断つことはできない。だから、そういう者を決まった場所に誘導するための囮のようなものだな。誘い込まれた者には、それなりの怪奇を与えて、二度と立ち入る気がしないように仕掛けてあった」
「僕たちの時も?」
「あの時は朱里が関わっていたから、事情が違う」
遥が如何に朱里ために心を砕いて来たのかを、彼方は改めて思い知る。
「黄王! もう無駄話は良いから、行こうよ」
鳳凰が遥の腕を引っ張って、何のためらいもなく暗黒の渦に飛び込んだ。
「主上!」
麟華も驚いたように後に続く。
あっさりと鬼門に呑まれた守護達と遥を見送って、残された彼方達は顔を見合わせた。
「要領は裏鬼門と同じでしょう。ただ規模が違うとでも考えれば良い」
少し怖気付いている妹に発破をかけるように奏が雪を見る。雪は兄皇子である白虹には弱みを握られたくないのか、いつもの気丈さを蘇らせた。
「別に恐れてなどいません」
言うより早く彼女が暗黒の中へと姿を消す。
「え? ちょっと待ってよ! 雪」
少しくらいは頼られたい気もしたが、彼方も慌てて後を追う。背後で奏が笑う声を聞いた気がしたが、すぐに襲って来た慣れない体感に気を取られた。
幾許の時が過ぎたのか、トッと地に足がつく気配がした。視界はまだ真っ暗だったが、さっきまで見ていた暗黒とは明らかに質が違う。
「雪? 副担任?」
呼びかけた声が驚くほど辺りに反響した。瞬きを繰り返すと、少しずつ目が暗闇に慣れてくる。
「翡翠様」
雪の声が響く。ようやく人の輪郭が見分けられるようになってきた。久しぶりに聞く愛称だけが、彼方ーー翡翠に天界の実感を与える。
さらに目が慣れてくると、傍らの雪の顔がぼんやりとわかる。
目を凝らして辺りを眺めると、岩肌の露出した洞窟内であることが明らかになる。
岩の割れ目がほのかに発光している。外の光がちらほらと届いているのだろう。廃墟の中にある裏鬼門とは趣きが異なっていた。
「興味深いですね」
背後で奏の声が聞こえた。足音と共に、遥の気配が近づく。
「とにかく私の寝殿へ行きましょう」
既に聞き慣れてしまったよく通る声。先陣を切るように歩き出した遥の後ろ姿を眺めながら、彼方はここが闇の地であることを思い出す。まさか自分が踏み込むとは思いも寄らなかったが、果たしてみると拍子抜けするほど恐れを感じない。
きっと、これまでの成り行きのせいなのだろう。
岩肌に足を取られないように外へと向かいながら、彼方は鳳凰が不自然に押し黙っていることに気付く。
鬼門を越える前の五月蝿さが嘘のようだった。洞窟を抜けると、鈍い色彩に彩られた天界の空が広がっている。異界の日中の明るさに慣れていたせいか、天界を離れる前よりもさらに精彩を欠いているように見えた。
天界の現状を突きつけられて、彼方は気持ちが暗くなる。何気なく視線を投げると、不意に飛び込んできた光景に目を奪われた。
緩やかな癖を持つ赤銅色の髪が、彼の本性のままに長く伸びている。艶やかに煌めく不可思議な色。異界の太陽のもとにあれば、黄金色に輝きそうである。
隣に並ぶ守護の黒髪と対比するせいか、余計に異彩が際立つ。
見慣れない色彩の美しさに、彼方は言葉を忘れて魅入ってしまう。
「翡翠の王子、どうしました」
すぐ横で囁く白虹の皇子の声で、翡翠は我に返る。カッと頰に熱がこもった。見惚れていたとは言えず、曖昧に笑う。
「白虹の皇子も輪郭が戻ったみたいですね」
翡翠はもう異界の仮名を語る必要もないのだと、気持ちを改めた。
皇子の髪の長さを示すと、彼は「ああ」という顔をする。
「異界では少し歪んで見えるようですね。歪んだ輪郭も悪くはなかったですが……」
皇子の声を遮るようにして、唐突に沈黙していた鳳凰が吠える。
「――やっぱり感じる!」
「うん、わかってる!」
鳳凰がきっと顔を上げた。少年が手をあげて何かを示す。
「洞窟でこれを見つけた!」
「主上の髪?」
「そう!」
翡翠は驚いて思わず近寄る。細い筋がほのかに輝いている。たしかに長い金髪の一筋だった。
「我が君もあの洞窟にいたんだ。気配がした」
「ええ! それにもう追えるわ。主上の気配をとらえた」
「うん、俺も」
「絶対に見失わない」
言いながら、幼い二人は遥――闇呪を仰ぐ。
「行こう、黄王! 俺達が飛ぶよ!」
「黄王を乗せて飛ぶわ」
勢いで話を進める鳳凰の前に、麟華が立ち塞がった。
「ちょっと待ちなさい、あなた達」
「邪魔しないでよ、麒麟。――そうだ、片割れは? 早く呼び寄せて一緒に行こうよ」
目の前の展開が早すぎて、彼方は唖然となる。こんなにも容易く朱桜の行方が明らかになるとは考えていなかったのだ。
守護と主の繋がりは、比翼と翼扶を超えるのかもしれない。
「はやる気持ちはわかるけど」
「いや、いい。麟華」
闇呪は諌めるように麟華の肩を叩いて、黒麒の名を口にした。
「麒一」
しばらく待ってみるが、何の気配も感じない。
「麒一?」
闇呪が再び口にした時、彼方は何かが視界を横切ったような気がした。確かめる間も無く、悲鳴があがる。
「主上!」
「黄王!」




