第四章:一 灯された希望
朱桜のために出来ることがあるのなら、何を躊躇う必要があるだろう。
相称の翼となった彼女が、未だに守護を携えていないという事実。なぜか鳳凰は自分の傍らにある。白虹の皇子が云うように、何かの縁なのだろうか。
遥は少し気持ちが緩むのを感じた。
覚悟していた朱桜との決別。
別れが訪れた後は、ただ朱桜の安寧を祈る。それだけが自分に許される役割なのだろうと、ずっと考えてきた。頑なに心に刻んでいたのだ。
「でも不思議。黄王が我が君と一緒にいないなんて。喧嘩でもしちゃったの?」
邸宅の小さな庭先で、外灯に照らされた人影。どういう縁なのか、天界の者が集っている。
鳳凰は黒麒麟と同じ漆黒の瞳をしているが、双眸には好奇心を隠しきれない幼い煌きがあった。無邪気にまとわりついてくる仕草から、彼らが自分を敬遠していないのがわかる。
鳳凰に疎ましく思われていないことが、遥の絶望を希釈する。朱桜の守護として働く本能に、存在を否定されないのは救いだった。
朱桜のために出来ることがある。
認めてしまえば、もう迷う必要もない。遥はこれから何を成すべきかを考え始めていた。
「麟華。私は麒一の行方も気になる」
「はい。私もです、主上。どうして私は麒一と別れてしまったのか」
「天地界に戻って呼んでみるが、もし戻らない場合は……」
「麒一が主上の呼びかけに応じないはずはありません」
「ああ、私もそう思っているが ――」
凶行の記憶がない麟華に遥はうまく不安を伝えられない。何と説明をするべきか考えていると、傍らの奏が口を開く。
「万が一、黒麒が遥の呼びかけに応じない場合には、私が探しましょう。遥は鳳凰と朱桜の姫君のもとへ 」
「それなら僕と雪が探すよ。奏は副担任と行動を共にすべき……」
彼方が言い終わらないうちに、麟華が抗議するかのように、声を高くする。
「そんな必要はありません。麒一が応じないはずはありません」
麟華が訴えるのも無理はない。主に応える。おそらく黒麒麟としての本能、あるいは誇りのようなものなのだろう。奏は麟華の訴えに動じることもなく、微笑みを向ける。
「ええ、ですから万が一と申し上げています」
「万が一そんなことがあれば、私が麒一を探します」
「その時は、私もご一緒しますよ」
あっさりと答える奏とは対照的に、麟華は不服そうに口元を歪めている。しばらくじっとりと奏を睨んでいたが、すぐに涼しげな微笑みに降参したのか、はぁっと息を吐いた。
「皇子は不思議な方ですね。私達を全く恐れない」
「恐れる理由がありません」
麟華は困ったように首を傾けたが、思うことがあるのか、それ以上は何も言わなかった。奏が遥を見返りながら表情を改める。
「さきほども言いましたが、朱桜の姫君が遥を比翼とする途も残されています。彼女を追うために、私達は先を急いだ方が良いでしょう」
「私はそういう目的で彼女を追うわけでは」
奏はまるで遥の内に燻っている未練を射抜くかのように視線に力を込める。
「あえて申し上げますが、あなたが朱桜の姫君を信じられないのは、立場的に仕方がないのかもしれません。ですが、朱桜の姫君があなたを愛していない。遥は本当にそう考えていますか」
既に奏はわだかまっている未練を見抜いているのだろう。標的を定めた狩人のように、的確に遥の心の奥底、奈落に沈む想いを突き刺してくる。
「天落の法に身を委ねても、彼女はあなたに思いを寄せた」
「それは……」
「あなたはその意味をわざと考えないようにして来たのでしょう。金色を纏う彼女を前にして、その理由を優先させてしまった」
「――それが間違えているとでも?」
「私達に刷り込まれて来た世の掟が正しいとは限りません」
戯言に等しい言い分だと思ったが、遥はすぐに反論する気にはなれなかった。聡明な白虹の皇子が何の根拠もなく言い募るとも思えない。伴侶となるはずだった白露を失うまで、皇子の名声は世に響き渡っていた。
「もし世の掟が何らかの思惑によって改竄されていたとしても、あなたは何の疑いもなく、相性の翼となった姫君は黄帝を愛していると、そう考えますか」
朱桜の想いの行方。
自分に向けられたら、どれほどの悦びとなるだろう。
暴かれていく未練のうちにある、秘められた期待。今まで頑なに目を逸らして来た甘い幻想。少しずつ希望が灯される予感があった。
不思議なほど、以前のような危機感を覚えない。自身にあった恐れを暴かれ、受け入れてしまったからだろうか。
自分の知る世の掟が覆る可能性。心が揺れないわけがない。
朱桜のために生きることは、考えていたよりも簡単に許されるのかもしれない。
遥はじっと奏の目を見る。緩やかに胸を占める希望を口にしようとした時、幼い声が遥の言葉を阻んだ。
「あのさぁ、我が君と黄王がどんなに酷い喧嘩をしたかは知らないけど、早く天界に戻ろうよ」
「そうよ。会って話せばすぐに解決するでしょ?」
鳳凰は再び地団駄を踏み始める。奏が吹き出すと、それが伝染したかのように、彼方と雪も笑った。遥も可笑しくなる。自分に巣食う深いわだかまりも、鳳凰を前にすると些細な出来事になってしまう。
奏ともう一度視線が合う。灰褐色の美しい瞳。時には白刃の閃きのように鋭い光を宿すが、今は微塵も険しさがない。もう全てを見抜かれているのかもしれないと、遥は安堵にも似た思いに囚われる。
「遥の気持ちは、一時的に保留にしましょう。ただあなたが決意した時、手遅れにならないように、今は先を急ぎましょう」
悪戯めいた笑みを浮かべながら、奏が当たり前のことのように行先を示す。
「皇子、ありがとう」
「感謝されるのは、まだ早いです。私は一足遅かった自分を呪いたいくらいですからね」
言外に自分への皮肉が含まれていることを悟って、遥も苦笑する。
「では、鬼門へ。天界へ急ぎましょう」
遥は一歩を踏み出す。少し前までは考えられなかった新たな道筋。
まだ迷いがないとは言えない。けれど、確実に動き始めてしまったという自覚があった。
禍となるのか。
あるいは、別の途があるのか。
今はあえて考えずに歩むべきなのかもしれない。
わずかに灯された希望を糧に、遥は進むことを選んだ。




