第二章:四 黄緋剣(おうひのつるぎ)
(――今なら)
朱桜はすうっと右手で虚空を掻く。
以前と変わらず、しっかりと手に触れる感覚があった。強く握りしめて思い切って引き抜く。
すらりと空を切る光。現れた刀剣は目を焼かれそうな輝きを伴っている。
柄は見慣れた朱だが、刃は金色に変貌していた。
黄金色の剣。
自身の刀剣なのに、魅入ってしまう。
「――素晴らしいな」
碧宇の声でハッと我に返った。朱桜が彼を仰ぐと、碧宇は綺麗な眼差しを細めて嘆息を漏らす。
「黄后の剣など初めて見た。……恐れ多い」
「私も初めて見ました」
「抜くのは初めてか。剣の名は?」
「……黄緋剣」
まるで以前から知っていたかのように、剣の名がわかる。朱明剣が変貌を果たしたのだ。柄の鮮やかな朱に見覚えがあった。
「姫君は相称の翼だ。偽物であるはずがない」
朱桜も認めざるを得ない。つかみ取った剣が紛い物であるとは思えなかった。
自身の剣であるのに、把握することができない膨大な力を秘めているのが伝わってくる。
黄后の――天帝の剣だと悟った。
「でも、どうして……」
どうして相称の翼に成ったのか。
やはりあの忌まわしい出来事が儀式となったのだろうか。
朱桜が唇を噛んで悪夢のような出来事をやり過ごしていると、碧宇は胸中を察したのか、静かに語る。
「姫君、あまり考えないほうが良い」
朱桜が顔をあげると、碧宇は頷く。
「それは自分を追い詰めるだけだ。ただ何人であれ、陵辱も真名の強要も、天界の者としては失落に値する行いだと俺は思う。それが儀式だというなら、この世の先途も知れたことだろう。――まぁ、これは俺の個人的な意見だがな」
「……碧宇の王子」
朱桜は自分の背負っている何かが、少しだけ軽くなったような気がした。
誰もが相称の翼となった自分には、世界のために耐えることを強要するのだと思っていた。
どんな試練も当たり前のように、乗り越えるべきだと。
自分の境遇を慮ってもらえることなど、ありえないと思いつめていた。
「ありがとうございます」
語られてきた天帝の発祥に齟齬があったのか。誰もが信じて疑わない理に、秘められた掟があるのか。
わからない。けれど、今は考える必要がない。自分はもう相称の翼になってしまったのだ。
碧宇が慰めるかのように、朱桜の肩に手を置いた。
「今は考えても仕方がない」
「はい」
「姫君が納得いかないように、俺にも腑に落ちないことがある」
「え?」
碧宇は答えず、悪戯っぽく笑う。
「そもそも黄后の守護はどうなっている?」
「守護?」
「そうだ。あんたが相称の翼であることは疑いようがない。だが、鳳凰を携えてはいない」
朱桜は手にした剣の輝きを見つめる。これが偽物であるとは思えない。確かな手ごたえと存在感を持って、黄緋剣がここにある。
黄后と共に生まれる守護、――鳳凰。自分には与えられていないのだろうか。
朱桜の知っている成り行きとは、全てが異なっている。
「心当たりはないのか?」
碧宇の問いに朱桜は頷くことしかできない。彼は「おや?」と云いたげに首を傾ける。
「俺にはあるがな」
「ええ!?」
「そんなに驚くことか? はじめに姫君を乗せて飛んだ黒い怪鳥。そして黒樹の森の経緯の中に現れた童だ。俺も天帝の発生について詳しいわけじゃない。どの段階で守護が誕生し現れるのかも知りはしないが。ただ麒麟も鳳凰も、雌雄で守護となり変幻する。あんたを鬼の襲撃から救った少年と少女は、その行動からもおそらく鳳凰だろう」
朱桜は黒樹の森で出会った幼い二人を思い出す。麒一と麟華の印象とは違いすぎたせいだろうか。思いもよらなかった。
「とにかく陛下の元に戻るのは、もう少し考えよう。姫君にも覚悟を決める時間が必要だ」
「だけど、もうそんな猶予は」
ないと示すと、碧宇は横に首を降る。
「ここに黄后の剣があるのなら、色々やりようがあるはずだ」
碧宇の決断は驚くほどあっさりとしていた。簡単に勅命を放棄する豪胆な気性に、朱桜は唖然となる。黄帝の元へ戻るという選択肢を破棄すると、既にその考えに未練はないようだった。何の戸惑いも迷いもない様子で、朱桜に問いかけた。
「天界で誰か信用できる者はいないか? 姫君を案じてくれるような者は?」
闇呪や黒麒麟以外にはない。朱桜は首を横に振ろうとしたが、導かれるように異界での出来事を思い出す。
(――赤の宮……)
緋国で拠り所のない孤独と戦っていた時は、宮の配慮に慰められていた。
どんな風聞にも心を奪われることなく、毅然と立つ王。
朱桜が憧れていた中宮。
国を背負う立場にありながら、異界に渡り来た理由。
(赤の宮が、どうして……)
あの時は意味を考えることもできなかった。
天落の法で記憶を失っていた朱里を引き寄せ、抱きしめてくれた。彼女の温もりに泣きたいような気持ちになったことを覚えている。
中宮と闇呪のやりとりを懸命に思い出す。誰もが闇呪を厭わしく思う世界で、赤の宮は彼に信頼を寄せていたのではないだろうか。そして、黄帝の真意が分からないと。
たしかに、そう言っていた。
「緋国へ」
「ん?」
「緋国の赤の宮に会いたいです」
「姫君の故郷だな。悪くない」
碧宇は不敵に笑うと、すっと手を出す。大きな掌に漆黒の宝玉があった。美しいが、禍々しさを漂わせている。朱桜は不安そうに碧宇の顔を仰ぐ。
「麒麟の目だ。今は誰にも行方を知られたくない。だからこれで一足飛びに赤の宮の元へ向かう」
「大丈夫ですか?」
麒麟の目の活用には呪鬼が伴う。弱い心の持ち主はすぐに呑まれてしまうだろう。
そのため、本来は禁忌とされる手段だった。
「俺はそこまで愚かではない。頼るのは、これが最後だ」
碧宇の強い眼差しを見て、朱桜は頷いた。
「霊脈を開く」
ふわりと碧宇に肩を抱かれる。朱桜は未練を断ち切るように、固く目を閉じた。




