第二章:三 義務感
幸いなことに、碧宇は話の途中で口を挟むことはなかった。途中で朱桜が語りやすくなるように促すことはあったが、自身の意見を押し付けてくることはしなかった。
おかけで朱桜は自分の体験をほぼ的確に伝えられた気がしていた。
碧宇は全てを聞き終えると、はぁっとため息をついて、上体を前に倒すような勢いで顔を伏せる。
朱桜も振り返りたくない記憶の想起に神経を消耗してしまい、ただ蒼ざめた顔で碧宇の様子をうかがうことしかできない。
耳の痛くなるような静寂が蘇る。朱桜は冷えたままの指先を温められないかと、息を吹きかけてこすり合わせる。何度か繰り返していると、不意に声が響いた。
「――酷なことを言わせて、悪かった」
朱桜は驚いて碧宇を見る。顔を伏せたままの碧宇は項垂れているのだろうか。
朱桜は話し始める前のように、彼に警戒していないことに気づく。
自分が語ったことは、黄帝を貶める内容であると激昂されても仕方のない内容を含んでいた筈だ。
けれど碧宇は真摯に耳を傾けてくれた。
それどころか朱桜の胸中を推し量って労わってくれるのだ。
朱桜はホッと力が抜ける。
気持ちが緩むのを感じて、これまでずっと自分が張りつめていたことに気づいた。
顔を伏せたまま、碧宇はまるで独り言を呟くような覇気のなさで問いかけてくる。
「姫君は、陛下と愛を以って真名を交わしたことはなかった」
「――はい」
「陛下を愛してはいなかった」
「……はい」
「縁を結んだ坩堝の番人、闇呪を愛していた」
「はい」
「そして、闇呪の翼扶になった」
「はい」
碧宇の問いに返答が必要なのかどうか、朱桜は戸惑いを覚える。
彼は問いかけているのではなく、単に成り行きを反芻しているだけなのかもしれない。
「姫君は……、陛下を愛していなかった。互いに翼扶でも比翼でもない。至翼ですらない」
朱桜の予感は当たったようで、碧宇の声はさらに小さくなり、考えをまとめているのか聞き取るのが難しいほどの独り言になる。
朱桜はじっと黙って碧宇の様子を見守ることしかできない。彼が自分の語ったことを信じてくれるのかどうか、祈るような気持ちだった。
自分はこれからのことを思い描けずにいる。
相称の翼が闇呪の傍にある。真実がどうであれ、このままではいっそう彼の立場が悪くなる。
その思いに突き動かされて、朱桜は天界に戻ることを考えた。
けれど、それが正しかったのかはわからない。
「――姫君」
ブツブツとした碧宇の独り言が、急にはっきりとした声に変わった。
朱桜はびくりと肩を上下させてしまう。所在なく見つめていた自分の手から、碧宇に視線を向けた。
碧宇も伏せていた顔を上げて、こちらを見ている。目が合うとガシガシと結い上げた髪が乱れそうな勢いで、頭をかく。朱桜に向けた眼差しを申し訳なさそうに細めた。
「俺には陛下のお言葉と、姫君の話してくれたこと。どちらを信じるべきなのか、正直なところわからない」
朱桜には返す言葉がない。それが当然の解答であるとも思えた。
「私は、陛下の元に戻れば良いのでしょうか?」
そのために闇呪の元を離れたのに、なぜか避けるべきことであるかのような危機感が生まれていた。
碧宇に真実を語るために、黄帝との経緯をしっかりと想起させたせいかもしれない。
「天界での先生の立場はどうなっているんですか?」
「先生? 闇呪のことか?」
「あ……」
慣れた呼び方だったが、朱桜はハッとする。闇呪と言いなおそうとしたが、愛称の意味を考えると先生の方が相応しい気がした。
「はい。私にとっては、かけがえのない人です」
碧宇は労わるように一瞬視線を伏せてから、朱桜を見る。
「闇呪の立場は、今や陛下の敵だと言っていい」
「え?」
「もし陛下に闇呪を打ち破る力があるのなら、すぐにでも滅ぼそうとなさるだろう」
「そんな。どうしてですか? 先生は何も悪くありません。世界を滅ぼすような意志もないのに」
「真実はどうであれ、この疲弊の著しい世で相称の翼を秘匿していた。それだけでも大罪だ」
朱桜は強く唇をかむ。
自分のせいだ。浅はかな逃避の結果でしかない。
「それは私のせいです。私が逃げたから」
「そうかもしれない」
「私が陛下に申し上げます」
碧宇は朱桜をいさめるように軽く右手をあげた。
「しかし、姫君の話には不審な点が多すぎる。姫君の逃亡に手を貸したという先守が何者であったのか。黒樹の森で姫君を襲撃した鬼についても……。鬼が関わっているのなら尚更だ。陛下のお立場なら闇呪の思惑を疑っても仕方がない」
「先生は関係ありません。碧宇の王子にも、私の話は信じられないということですか」
「鵜呑みにするのは難しいな」
朱桜は俯いてぎゅうっと掌を拳に握りしめる。
「酷な言い方をすると、姫君を翼扶に選んだことも、全て闇呪の策略かもしれないと考えることも可能だ」
「先生はそんな人じゃありません!」
「まぁ待て。そういきり立つな。俺が言いたいのは、姫君が陛下の元に戻ったところで、闇呪への誤解が解けるとは思えないということだ」
「じゃあ私は一体どうすれば」
「わからん」
「は?」
「そんなこと俺がわかる訳がない。そこで、姫君に一つ問いたい」
「な、なんですか」
碧宇は一呼吸おいてから、真剣な趣で口を開く。
「姫君は陛下の元へ戻りたいと思っているのか?」
碧眼に再び労わるような色が浮かぶ。朱桜は咄嗟に視線を逸らした。
「私が戻らないと、先生の立場が悪くなります」
「既にこれ以上はないくらい悪いがな」
「だから誤解をとかないと。それに地界の状態も放っておけません」
碧宇は不敵に見える笑みを浮かべて、首を傾げる。
「陛下の傍に戻りたいのは、ただの責任感というわけか。まぁ、当然だな」
朱桜が何か問おうとするより先に、碧宇が続けた。
「ところで、あんたは剣を抜けるのか」
「剣?」
「そう。――黄后の剣だ」
「あ」
黒樹の森で鬼に襲撃された時は抜けなかった。形にならなかったのだ。
けれど、今は。




