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シンメトリーの翼 〜天帝異聞奇譚〜  作者: 長月京子
第五話(最終話) 相称の翼

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第二章:一 碧宇の王子(へきうのおうじ)

 どうして、これほどに全てを忘れていられたのか。

 朱桜(すおう)は犯した罪の深さを思う。


 果たすべき役割を放棄して、ただ逃避していた。

 浅はかな行い。誰に責められても仕方がない。

 むしろ責めてほしいと願うほど、独りでは背負いきれない呵責(かしゃく)

 けれど、今胸を占めている痛みは、呵責すらも覆いつくしてとめどない涙へと変えてしまう。


 忘却がもたらした、夢のようなひと時が脳裏を埋め尽くす。

 よく通る声。困ったような微笑(ほほえ)み。

 彼は全てを知りながら、自分を慈しんでくれた。


 どんな時も。

 何があっても。


 闇呪(あんじゅ)翼扶(つばさ)として愛されていたこと。朱桜には疑う余地もなく刻まれている。


(「――これからも想いは君と共に在る。この世を失いたくないという想いで、私達は同じ処に(つな)がっている」)


 朱桜(すおう)は心を犯す呵責と哀しみを押し殺すかのように、ぐっと奥歯を噛みしめる。

 天宮の邸宅を出るとき、朱桜は着慣れた学院の制服を身につけた。その上に長い髪が隠せるように、フードのついた上着を羽織った。

 今となっては、異界のその衣装すらも、哀しみを煽る。帰ることにの出来ない世界を見せつける。

 

 二度と闇呪(あんじゅ)の元には戻れない。

 こんなにも彼を愛しているのに、決して想いを叶えることは許されないのだ。

 それでも。


 彼への想いを奪われたわけではない。これからも失うことはない。

 決して証を示すことができなくとも、闇呪(あんじゅ)は唯一人、自分が心に決めた比翼(ひよく)なのだ。


(絶対に、彼を死なせたりはしない)


 ギリギリときしむほどに歯を食いしばって、朱桜は涙を拭う。心を埋め尽くす感情を吐きだすかのように、ふうっと大きく息をついた。

 成すべきことはわかっている。世の礎として、誰もが闇呪(あんじゅ)(わざわい)であることを忘れられるほどの、豊かな世を築くのだ。

 後悔や未練は、彼を救う糧にはならない。もう振り返ることは許されない。


(先生に、――生きていてほしい)


 ようやく毅然と顔を上げた朱桜は、傍らで誰かが立ち上がる気配を感じて弾かれたように振り返った。

 ザリザリとこちらに近づいてくる足音が、岩肌に反響して洞窟内の沈黙をかき消す。愛想のない声が、驚くほど辺りに響き渡った。


「悲劇の姫君ごっこは終わったか?」


 飾り気のない本音が、朱桜を見つめる眼差(まなざ)しにも込められている。朱桜は鬼門を超えた瞬間からの失態を思い、急激に現実的な感情が蘇るのを自覚する。


「どうやら姫君は情緒不安定のようだな。役割を顧みず禁術に身を委ねるくらいだから、当然といえば当然か」


 まるで傷口に塩を塗りこむような勢いで、碧宇(へきう)は容赦なく朱桜を糾弾する。責められても(なじ)られても仕方がない罪を犯したのは確かだが、朱桜はなぜか苛立ちがこみ上げてくるのを感じた。

 自分の罪は痛いほどわかっている。なのに殊勝な気持ちで謝る気にはなれなかった。


「あなたに何がわかるんですか?」


 思わず噛み付くような口調になってしまう。

 朱桜は改めて、鬼門と言われている辺りの様子を見回す。門とは名ばかりで、建造物などはどこにもない。岩肌の露出した天然の要塞としか言いようのない洞窟。


 禁術を犯す前、この場所で最後に闇呪(あんじゅ)と会った。決別の覚悟は思いもよらない結果をもたらした。まるで異界に輪廻を果たしたかのような日々の始まり。天界で過ごした時に比べれば、瞬く間に過ぎさったが、記憶は鮮明で濃密だった。


 本来は闇呪(あんじゅ)の守護である黒麒麟に、家族として慈しまれ過ごした日々。教師と生徒として、闇呪(かれ)に出会った必然。失われずに蘇った想い。

 朱桜はどっと去来した幸せな思い出に呑まれて、鬼門に降り立った瞬間、こらえきれずにその場で声をあげて泣き崩れてしまったのだ。


 再び振り返りそうになる自分を戒めて、朱桜は嘲笑を浮かべている碧宇(へきう)を睨んだ。

 碧宇(へきう)は朱桜の苛立ちに無頓着な様子で、憶するような素振りを全く見せない。

 朱桜が視線に力を込めても、不敵な笑みを浮かべて見返してくる。朱桜は思わず肩から流れ落ちる自身の長い髪に視線を落とした。


 視界に入ってきた輝きが、朱桜の胸にズキリと痛みを刻んだ。

 見慣れた朱はない。闇呪(あんじゅ)が綺麗だと褒めてくれた色合いは、もう戻らない。

 黄后の証となる金色が幻たっだのではないかという場違いな期待は、すぐに打ち消されてしまった。

 改めて、朱桜は毅然とした碧宇を眺める。対等な立場を望んだのは間違いないが、自身が(まと)っている色を思うと、強靭(きょうじん)な碧宇の言動に畏怖(いふ)の念さへ感じる。


 漠然とこれが国を背負って立つ第一王子の資質なのかと思えた。碧宇は朱桜の目まぐるしい思考を弄ぶように、さらにこちらに近づく。


 緑を基調とした雅な裳衣(しょうい)朱桜(すおう)闇呪(あんじゅ)の生まれた緋と滄の衣装とは異なっている。朱桜がこれほど間近で碧国の正装を見るのは初めてだった。


 吸い込まれそうな碧宇の瞳。異界の映像で見た紺碧の海に似ている。華やかな裳衣(しょうい)よりも、圧倒的に目を惹く。朱桜は至近距離に迫った気配に、一瞬で怖気づいてしまう。苛立ちに任せた勢いが、脱兎のごとく失せてしまった。


 同時に、碧宇の目を(はばか)らずに号泣していた自分に対して、とてつもない恥ずかしさがこみ上げて来る。

 碧宇はさらに朱桜の顔を覗き込むように身を屈めた。


「な、なんですか」


 後ずさりそうになるのをこらえて、朱桜は精一杯虚勢をはった。

 碧宇は人を見下すような表情のまま、悪戯っぽく唇を歪める。


「俺は女の泣き顔は好かん」


「は?」


「怒っている方が、まだマシだ」


 朱桜には碧宇の思惑が全くわからない。反応できずにいると、碧宇がいきなり声をあげて笑いだす。


「豆鉄砲でもくらったような顔だな」


「な、何を」


 カッと頬に熱がこもる。朱桜がキッと睨むと碧宇は追い打ちのように、さらに豪快に笑う。


「まぁ、相称(そうしょう)(つばさ)を怒らせる王子など、俺くらいのものだろうがな」


 どんなふうに反応すれば良いのかと戸惑う朱桜の前で、碧宇は笑い過ぎて息苦しくなったのか、ぶはぁっと大きく呼吸する。宝玉のような瞳が、再び朱桜を捉えた。


「さて、そろそろまともに話せるか?」


 まるでこれまでの成り行きが茶番であったかのような潔さで碧宇は表情を改めた。

 美しい碧眼の奥に、真摯な光があった。

 朱桜は一連のやりとりが、碧宇なりの慰め方なのだと察してしまう。自分の愚かさを浮き彫りにされた気がして、グッと気を引き締める。嘆いているだけでは、前には進めない。


「ごめんなさい。もう、大丈夫です」


 朱桜は覚悟を決めて頷いてみせた。


「よし」


 碧宇は先を急いでいるだろう。すぐにでも黄帝の元へ参上したいはずなのだ。彼がくるりと(きびす)を返すのを見て朱桜も踏み出そうとしたが、碧宇は近くの大きな岩に歩み寄ると、ドカッとその場に腰を下ろした。


「では、姫君に聞きたいことがある」


「え?」


「そりゃあそうだろう。今の状況なら、誰だってあんたに聞きたいことがあるさ」


 呆然と立ち尽くす朱桜に、碧宇は手振りで座れと示す。

 確かにこれまでの自分の行いは理解できないだろう。相称の翼でありながら金域(こんいき)から逃亡を図り、禁術に身を委ねたのだ。朱桜は素直に近くの岩肌の突起に腰掛けた。

 碧宇と向き合うような形で座ると、朱桜もこれまでのことを分析する冷静さが戻ってくる。


「姫君は、なぜ黄帝――陛下の元から姿を消したんだ」


「なぜって」


 朱桜にはなんと答えれば良いのかわからない。よく考えれば、わからないことばかりなのだ。


「私は、自分がどうして相称の翼になってしまったのか、よくわかりません」


「あん? わからない? 陛下に愛を()って真実の名を賜ったからだろう? あんたは陛下の翼扶(つばさ)となった。そして陛下はあんたの比翼(ひよく)になった」


 碧宇(へきう)は呆れた口調で当然のように口にする。

 朱桜は自分の胸に手を添えるが、内に決然と輝くのは、今も闇呪(あんじゅ)の真名だけだった。

 そして自分の真実の名は、誰にも捧げた記憶がない。


 なぜ自分が相称の翼に変幻したのか。黄帝の想いで成ったのだと思っていたが、碧宇が言うように真名を賜ることもなく、そんなことがあり得るだろうか。


 朱桜は自分の長い髪を一房指先にすくい取る。

 正視するのが苦しくなるような、金色の輝き。

 これほどの変幻をもたらしたものに、何の証もない。そんなことがあるのだろうか。


「私は、偽物なのかもしれません」

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