第5章:2 不穏な影2
彼女はすぐに的外れな感想を述べる余裕を取り戻したようだ。朱里はホッとしたが、すぐに夏美のことを思い出す。彼女は朱里の隣で気を失って倒れていた。
蒼白だった顔色には、幾分色がさしている。朱里が額に手を伸ばすと、しっかりと温もりが伝わってきた。朱里は今度こそ安堵して力が抜ける。
改めて教室を見回すと、地震のあとのようなものすごい惨状になっていた。朱里は砕け散った窓硝子と蛍光灯の破片を眺めて、違和感を覚える。佐和の立っていた真上で砕けたにも関わらず、その下には一欠けらの破片も落ちていない。
砕け散った硝子はまるで箒で掃いたかのように、壁際に添うように端にだけ散乱していた。
「すごい地震だったね」
傍らに立つ彼方の台詞に、朱里は「え?」と顔を上げた。周りでは他の生徒達も同じような感想を抱いている。学院内は突然の災害に騒然としているようだった。
「地震?」
朱里はそうではないと思ったが、真実を口にしても誰にも信じてもらえないと思いなおす。五日ぶりに登校してきた彼方は、そんな朱里の様子をじっと眺めていた。
「委員長には、見えたの?」
「見えたって、何が?」
朱里が問い返すと、彼方は「何でもない」と手を振った。座り込んだまま動かない朱里を見下ろして笑う。
「どうしたの? 委員長。ショックで腰が抜けちゃったとか?」
「あ、ううん」
朱里は慌てて立ち上がった。彼方は「よいしょ」と明るく声を出して、気を失っている夏美を軽々と抱き上げた。
「怪我はないみたいだけど、とりあえず保健室かな」
「私も行くわ」
朱里が彼方の後を追って教室を出ようとした時、館内放送が地震について伝えた。他の教室ではささやかな揺れだったのだろう。窓硝子が割れるほどの被害は、朱里達の学級以外にはなかったようである。真っ黒な影が招いた禍の一部始終を眺めていた朱里には、それが当然の差異だろうと思えた。
夏美を抱えた彼方と廊下に出ると、担任の教師が小走りにやって来る所だった。予鈴前に現れたところを見ると、教室の惨状が耳に入ったのだろう。朱里は担任に遅れて同じように廊下に現れたよれよれの白衣を見つけた。
わざとらしい位に前かがみの姿勢には、全く覇気が感じられない。
冴えない副担任に化けた遥である。朱里は教室の不自然な破片のありようが、ちらりと頭をよぎった。遥は学院内の出来事には、どこにいても対処できるのだろうか。
聞きたいことは山のようにあったが、とりあえず今は単なる副担任と生徒を演じる必要がある。
「天宮」
駆けつけた担任は、朱里の前で立ち止まった。
「うちだけ硝子が割れたって? 川瀬は怪我でもしたのか?」
彼方に抱えられた夏美を見て、担任は動揺しているらしい。朱里はすぐに首を横に振った。
「ざっと見ただけですけど、学級内に怪我人はいなかったと思います。夏美は衝撃で気を失ってしまったみたいで」
「そうか」
担任の教師は肩から力を抜いて掌を胸に当てた。傍らにふらりと遥が現れて、彼方からぐったりとした夏美の体を取り上げるように手を伸ばした。
彼方は学院の禁忌を破った日から、今日がはじめての登校である。現れた副担任とは、これが初対面になる。彼は澄んだ碧眼に副担任を映して、不思議な物を見るように訝しげに眺めていたが、伸ばされた副担任の腕に素直に応えようとしていた。
「彼女は私が保健室まで運びましょう」
副担任である遥がそう告げた瞬間、彼方が驚いたように身震いした。したように朱里には見えた。遥に彼方の動揺が伝わったのかは分からない。副担任の素振りはそのままに口元に浅い笑みを浮かべている。彼方は副担任である遥に夏美を譲りながら、強張った表情のまま何かを探るような眼差しで、じっと遥の顔を見ている。
(そういえば、彼方もあの夜に先生の声を聞いていたんだ)
暗がりだったとはいえ、素顔も見ているはずである。
朱里は彼方が副担任の正体に気付いたのではないかと気が気ではなかったが、担任の教師が場をまとめるように話を進めた。
「では、川瀬は黒沢先生にお任せします」
「はい」
遥は頷いてから、更にくっきりと口元に笑みを浮かべた。
「天宮さん。彼女が気を失った経緯を聞きたいので、一緒に来てください」
「え?あ、はい」
慌てて頷くと、担任の教師は再び廊下を駆け出した。「他のクラスの生徒は教室へ入りなさい」と声をはりあげながら、自分の教室へ入って行く。まもなく、何事もなかったかのように、いつもの予鈴が鳴り響いた。朱里達の教室を取り囲むように出来ていた人垣も、その音色をきっかけに、蜘蛛の子を散らすように各自の教室へ駆け戻っていく。
廊下には夏美を抱えた副担任と朱里、そして彼方だけが残った。
「委員長、この人は誰?」
ひどく警戒した様子で彼方が呟いた。朱里の中で、禁忌の場所へと続く抜け道での出来事が克明に蘇ってくる。あの時も彼方は突然現れた遥に対して、こんなふうに殺気立っていた。朱里は遥の正体に気付いたのかと思いながらも、副担任だと紹介した。
「副担任?」
彼方が強い眼差しを向けると、遥はわざとらしく肩をすくめる。
「委員長は気がついていないの? こいつはあの夜、抜け道に現れた奴だ」
「そ、そんな筈ないよ」
思い切り否定しながらも、朱里はばれているとうろたえてしまう。言い当てられた遥は身動き一つしていない。彼方は遥を睨むように見据えていた。辺りの空気がびりびりと張り詰めているのがわかる。
「副担任だって? そんなものに化けてどういうつもりだよ。あなた、何者なんだ」
「三日間の謹慎処分の後、二日も続けて無断欠席。そんな不真面目な生徒に名乗るほど、私は優しくはありませんので」
するりと受け流して、遥はゆっくりと背を向けた。
「天宮さん、行きましょう」
冴えない副担任を演じたまま、遥はひたひたと歩き出した。朱里はどうすればいいのか分からず、遥の背中と彼方を交互に見つめた。
「話は終わっていないっ」
叫ぶように声をあげてから、彼方は凍りついたように動きを止めた。朱里は背を向けた遥の白衣から、ぞっとするほどの威圧感を覚える。
素顔を隠したまま、遥は彼方を振り返った。口元に浮かべていた笑みが消えている。
「満足にキを払うこともままならない。こちらの地への影響も顧みない。ヘキの第二王子。なりふり構わず、あのまま大地ごと沈めるつもりだったか」
大きくはないのに通る声が、氷柱の切っ先のように冷たく響いた。彼方は「まさか」と呟いたまま、動きを封じられたように立ち尽くしている。
「ここは私が護るテンラクの地。それが誰の差し金であろうと、――次はないと思え」
厳しく言い放ち、遥は傍らで呆然とやりとりを見守っていた朱里を見た。
「ああ、思わず叱り付けてしまいました。こんなところを見られては、天宮さんに怖がられてしまいますね。とにかく、保健室へ行きましょう」
一瞬にしていつもの副担任に戻ると、彼は再びひたひたと歩き出した。彼方はそれ以上の追求を諦めたのか、頭を垂れている。朱里はかける言葉が見つからず、「付き添ってくる」とだけ言い残して遥の後を追った。
彼方の前から立ち去るとき、朱里は彼の小さな呟きを聞いた。
「……噂は、本当だった」
暗い声が胸の底に沈んで、じわりと染みた。




