序章:一 追憶
女の母親は緋国の生まれだった。天籍を持たぬ地界の民。美しさだけが取り柄で、年頃にはその美貌を武器に天界へ召されることを望んでいた。
女の母は見事にその野望を叶えた。滄の太子に見初められ天界へ嫁いだ。
やがて子を授かり、女児――女を産んだ。天界においては大変な僥倖だった。
生まれ落ちた子、――女は滄と緋の混血。紫紺の瞳と髪色をもつ女児。しかし先守の力を携えてはいなかった。代わりに天籍をもって生まれおちた。
天と地の混血。天意がどのような因果を示したのかは誰にもわからない。
先守の色を纏いながら占うことができず、真実の名をもつ娘。これまでに類例のない存在として敬遠されながらも、娘は母親以上に美しく成長を遂げる。艶やかで憂いのある美しさ。たおやかな仕草が扇情的にうつるほど、濃密な美貌。
しかし、その際立った美貌は争いを生んだ。天帝の加護が豊かで、平穏な世であったからこそ、不毛な争いが続いたのかもしれない。
不穏な争いを好まない者達は、やがて娘――女の存在が禍であると訴え始める。先守の色を纏いながら天籍に生まれた異質な存在。
何の根拠もない言いがかりで、人々は娘の――その女の存在を否定した。
「陛下、いかがなさいました?」
音もなく歩み寄り、彼の守護である東麒が傍らに立つ気配がした。彼はゆっくりと見返ると、曖昧な笑みを浮かべた。
「なぜ人々は異端を忌み嫌うのだろうな」
「紫紺の娘のことですか?」
彼は答えず守護に問う。
「おまえは、四天王が決定した処遇をどう思う?」
「……仕方がないのだと思います。彼女の存在が周りの者を不安にさせてしまう」
「しかし彼女には何の罪もない。――まるで私の形代のようではないか。この世が不安定であるとするならば、責めは私にあって然るべきはず」
「陛下に咎はありません」
彼は玉座から立ち上がり、東麒を睨むように見据える。
「咎がない? この私に? おまえ達の血で染めたこの姿、それだけで充分、この世を欺いているではないか。私の本性は先守なのだ、故に天籍を持たぬ。この世が不穏であるというならば、それは天帝の御世を築くことのない私のせいであろう。……四天王はその歯がゆさを彼女にぶつけているだけではないのか」
東麒は深い双眸で真っ直ぐに彼の思いを受け止める。
「陛下は黄帝です。我ら麒麟を守護としてこの世に在ります。我らにとってはそれが真実。誰にも覆すことなど出来ません。この世も豊かです。四天王も陛下のことを認めておられます」
揺ぎ無い声が、淡々と続ける。彼はふっと力が抜けたように玉座に身を預けた。天を仰ぐようにして目を閉じる。どんな言葉も慰めにはならない。やりきれない罪悪感。晴れることはない。
麒麟を守護として生まれながら、天籍を待たず、本性を先守とした天子。身に与えられた深い紫紺は、麒麟の生血をもって黄金色に染めた。
偽りの輝き。黄帝として天帝の加護を発揮することもできない。この世の輝きは全て守護の力が担っている。
「異端は私だ」
今まで片隅で口を閉ざしていた麟南が、そっと言葉を挟む。
「それは違います。これまでになかったことを全て否定するのは愚かなことではありませんか。陛下は新たに変わってゆくことを、何一つ認めないのですか。陛下が先守でありながら黄帝であることは、この世にとって新たな変化なのではありませんか。その変化をどのように受け止めるのかは、自由であっていいはずです」
「この世に紫紺の娘が在ることも自由ではないのか?」
「もちろん自由です。――ですが、人々が思い描くこの世は、そこまで自由ではありません。これまでの出来事から導かれ、既に形作られてしまった世界があります。故に築かれて来た形に当てはまらないものに不審を抱き、恐れてしまうのでしょう」
「では、私もこの世に当てはまらぬ形をしているはず」
「違うのです、陛下。陛下が同じであってはいけないのです。人々が認められぬことを、陛下だけは新たな変化であると受け止めて欲しいのです」
麟南の柔らかな懇願。理解できないわけではないが、どうしても割り切ることができない。同じ変化でありながら、なぜ黄帝である自分と紫紺の娘の有り様にこれほど差異が乗じるのか。
争いは個々の内にわだかまる悪意が重なった結果でしかないのに、人々は判りやすい理由を欲しがる。紫紺の娘はまさにその役割を押し付けられた形代に他ならない。
理不尽な仕打ち。胸のうちにどうしようもない無力感がよどむ。
「東麒、私がその娘と会うことはできるのか」
いけませんと禁じられるのはわかっている。諦めながらの呟きに、東麒はしばらく沈黙で答えた。麟南の手がそっと肩に置かれる。
「かしこまりました。我が君が望むように手配いたしましょう」
予想外の答えに、彼が弾かれたように東麒を見た。驚きを隠せない彼を見つめたまま、守護は微かに笑ってみせた。
彼はふっと力が抜ける。守護が自分の苦悩を理解していることを改めて悟った。肩に置かれた麟南の手に掌を重ねる。
「ありがとう、東麒、麟南」
天子のささやかな望み。
しかし、それがこの世を狂わせる全てのはじまり。
今は語られることのない、古の真実。
呼びかけにはすぐに反応があった。東吾はそっと扉を押し開き、足音もたてず入室する。
「ただいま戻りました」
彼は「おかえり」と微笑みながら、寝台の上で開いていた本を閉じる。
「朱里様、いえ朱桜様は本性を取り戻されました。あとは史郎様が示されたとおり碧の第一王子にお任せいたしましたが」
声ににじんだわずかな不安を察したのか、彼は微笑んだまま頷いた。
「おまえの言いたいことはわかっている。しかし、私には他に成す術がない。信じて待つより他にないのだ」
「はい」
全て心得ていますと頷くと、彼は閉じた本を弄びながら「心配はいらない」と示す。
「碧宇の王子はきっと気がつく。本当に心を捧げるべき主が誰であるか。そのために何をなさねばならないか。忠誠は真実の名が全てではない」
「はい」
「ただ」
言いかけて、彼は口を閉じた。それ以上は語るべきではないと感じたのだろう。東吾もあえて問いただすことはしない。
「史郎様、今後もこれまでどおりに?」
「私の望みは変わらない」
筋道は変わらないと言いたげに、彼――天宮史郎はうなずく。
「天界の動向はこれまでどおり委ねることしかできない。私にはこちらでの出来事を見守ることしか許されない」
聞きなれた言葉だったが、彼は珍しく東吾を真っ直ぐに見つめて寂しげに笑った。
「そろそろわたしの出る幕も近い。いまさらおまえに言うことではないが、心に留めておいてほしい」
「かしこまりました」
多くは語らない主の思いを間違いなく感じ取ってから、東吾は次の行動を示す。
「では、私はこれから守護を迎えに参ります」
先のことを考えているのか、史郎は答えずに目を閉じた。東吾が立ち去ろうとすると、背後から声が追いかけてきた。
「おまえには苦労をかける」
東吾は何も云えず、主の前から辞した。
部屋を出て長い廊下を歩きながら、彼はわずかにうな垂れた。
今でも時折悔やむ。
あのとき、ささやかな望みを叶えたこと。
それが片割れを失い、主をこれほどに苦しめる結果となった。
東吾は立ち止まって自身の掌を見つめる。果たして主の望む結末は訪れるのだろうか。
わからない。
ただ、その結末を守るために、今は尽くすことしかできないのだ。
再び東吾は長い廊下を歩き始めた。




