終章:二 異界:天宮
闇呪は玩具のような小さな寝台の中に、赤ん坊の姿を見た。思わず傍らの守護に視線を投げると麒一と麟華が申し合わせたかのように頷く。
再びそっと小さな寝台に横たわる赤子を眺める。朱桜の面影を宿すには幼すぎる。信じがたい現実だったが、その正体を疑う気にはなれなかった。
禁術――天落の法。これはその結果なのだ。黒麒麟が見失わず、また異界の天宮の助けによって無事に再会できたことを、天に感謝すべきだろう。
見事な殻を形作って生まれ変わった朱桜に、闇呪はそっと触れる。たしかな温もりがあった。赤ん坊となった朱桜は、闇呪の気配に気付いたのか小さな掌を動かす。無垢な力で、触れた指先を握りしめた。
(――良かった……)
心の底から安堵する。どのような成り行きを辿ろうとも、傍に在れば護ることができる。
相称の翼になろうとも、彼女が自分の翼扶であることは揺るがない。
禁術に身を委ねる間際――泣きながら詫びる朱桜の姿が、脳裏に焼きついてはなれない。
これ以上はない輝かしい立場に在りながら、なぜ彼女が嘆く必要があるのだろう。
あの涙の意味。
黄帝と心を通わせるほど、朱桜の内には罪悪が生まれる。
誰でもない、自分が与えてしまった呵責。
闇呪は幼い朱桜から離れた。朱桜の小さな手が名残惜しそうに虚空を握り締める。
自分が破滅することは厭わない。ただ朱桜を守りたいのだ。彼女の先途が光り輝くことだけを願っている。
嘆く朱桜の姿は、その立場では在り得ないほど傷つけられていた。
いったい金域で何があったのか。
これから、どのように振舞うことが朱桜の助けになるのか。いくら考えてみても、闇呪には今後の筋道がうまく思い描けない。
「――これから、どうなさるおつもりですか」
まるで闇呪の迷いを察したかのように、すぐ傍らで落ち着いた声がした。麟華でも麒一でもない、この異界に生きる者――東吾の言葉だった。
これまでも、闇呪や黒麒麟が異界に訪問すると時折姿を現すことがあった。この異界で、天地界との繋がりを知り、全てを秘匿する役割を担っている一族――天宮。
東吾はその天宮の命を受けてやってくる使者のような者だった。闇呪や黒麒麟を前にしても動揺せず、好奇の眼差しで見ることもない。
「もし彼女をこちらに置かれるならば、お力になれると思いますが」
闇呪が真っ直ぐに東吾を見つめる。その表情から彼らの思惑を読むことはできなかった。禁術に身を任せた朱桜。闇呪への呵責だけで、彼女がそれほど悲嘆に暮れる必要はない筈だった。相称の翼に架せられた多大な役割。朱桜が知らぬ筈はないのだ。
黄帝と心を通わせながら、その全てを放棄するほどの理由。
闇呪にはわからない。なにか途轍もない出来事が起きたのか、あるいは起きつつあるのか。
状況がはっきりしない以上、動きようがないのも事実だった。朱桜を、相称の翼を異界に置く。それは許される行いではないのかもしれない。
けれど闇呪にとっては、これからのことを模索する猶予になる。いずれ朱桜を中心に何かが起きるのだとしても、この手で守ることができる。
朱桜に迫る危機。その防波堤になれるのなら悔いはない。
かけがえのない翼扶。
これからも何も変わらない。彼女の幸せだけを願う。その先途が輝けるように。
闇呪は東吾の申し出を受け入れた。それからの手配は迅速だった。まるでそうなることが予想されていたかのように、瞬く間に異界での立場が与えられた。
「彼女の名は、天宮朱里。そちらのお二人には兄姉としての立場を整えてあります。しばらくは私もこちらでお力になりましょう。何かございましたら、すぐにお申し付け下さい」
与えられた異界の住居は鬼門が繋がる学院の目と鼻の先だった。闇呪は守護である黒麒麟を朱桜――朱里の傍に残した。
「主上、姫君のことはご心配なさらずとも、我らがお世話をさせていただきます」
「――ああ、何も心配はしていない。では、私は闇の地に戻る」
今は何事もなかったかのように、闇の地で天界の動向を見守ることしかできない。そして鬼の坩堝を放棄することもできない。鬼の昇華は世の存続のため、今はまだ必要だと思えるからだ。いずれ何らかの思惑が動き始めたら、悠闇剣を携えて異界に渡る日がくるだろう。
それまで朱桜には、何の憂慮もなく異界で過ごしていてほしい。何も知らぬまま黒麒麟に守られて、穏やかな日々を送っていて欲しいのだ。
「――朱里、どうか良い夢を……」
無垢な瞳に語りかけて、闇呪は静かにその場を立ち去った。
第四話「闇の在処」 END




