十章:四 鬼門:天落の法
居室で筆をとっていた闇呪は、雷光のようにもたらされた気配に動きを止めた。白い紙が不自然な筆圧を受けて、じわりと文字をにじませる。
闇呪が立ち上がると同時に、麒一と麟華が現れた。
同じ気配を感じて即座にやって来たのだろう。
「我が君」
「わかっている」
鬼門に施した結界に反応があったのだ。何があったのかはわからない。ずっと感じていた胸騒ぎが形になったのではないかと、不安が色濃く迫った。
鬼門の所在を正しく把握している者は限られている。人々は鬼の坩堝と鬼門は同じ処に在ると思っているが、実際は違う。闇の地と称される領域で、闇呪の住まう寝殿、鬼の坩堝、鬼門はそれぞれが正三角形を描く一点となる位置に存在していた。
とくに鬼門は闇呪と黒麒麟が結界を巡らせ、容易にたどり着くことはできなくなっている。結界を破るには、それなりの力がなければ叶わない。
闇呪は黒麒麟の俊足をかりて、すぐに異変のあった鬼門へ向かった。
大きな岩山の麓にそれはある。裏鬼門とは異なり、建造物などはなにもない。ただ岩山の形作る洞窟の奥に、異界へと続く不可思議な地点があるのだ。
全てを呑み込む暗黒の渦。
闇呪は灯りの届かない洞窟の奥に、眩い煌めきを見ていた。それは手にしていた灯りを無意味にする輝きをもって、辺りを照らしている。
どこかでバタバタと音がした。何かが羽ばたくような感じだが、まるでもがいているかのような不自然さがある。洞窟の岩肌で反響するのか、それは不気味なほど残響を残した。バサバサと不規則な羽音があるだけで姿は見えない。
やがてバサリと大きな羽ばたきがあった。どこかへ飛び去ったのか、しんと静寂が戻ってくる。
闇呪は羽音の正体を確かめる気にはなれなかった。
目の前の輝きから、視線を逸らすことができない。
鬼門の傍らで、溢れ出すような光の中心に在る人影。見慣れていた筈の姿であるのに、まるで違う者のように感じる。
「朱桜……」
呟きは辺りに反響して、思っていたよりも大きな声になった。じっと鬼門の渦を見つめていた人影が、びくりと震えたのが分かる。
闇呪は岩肌を踏みしめるように、ゆっくりと踏み出す。近づくと、朱桜の纏っているものがずたずたに引き裂かれていることに気がついた。
無数の切り傷や痣、裸足の足先には乾いた血が固まっている。
何があったのかと問うことが憚られるほどの乱れた姿。
闇呪は何と声をかけて良いのかわからない。
その無残な姿とは不似合いな、金色の光が彼女の想いと立場を物語っている。
この世にただ一人、黄帝と心を通わせる黄后。
相称の翼。
「ごめん、なさい」
震える声が詫びる。金色の双眸から、とめどなく溢れ出る涙。
闇呪はふっと力が抜ける。それは安堵にも似た感情だった。
やはり天は許さない。
禍をもたらす者に、満たされた日々は許されない。
思い知ることを恐れていたはずなのに、なぜか当たり前のように受け止めていた。
仕方がないのだと、不思議なほど穏やかな思いで考えられる。
絶望も憤りもなかった。
「――君が謝ることはない」
立場を顧みず無謀な告白をした自分が浅はかだった。
朱桜は何も悪くないのだ。彼女はもう充分に与えてくれた。この鮮やかな世界を。
これまで身に余るほど豊かな日々を過ごしてきた。これからも至福の記憶が心を満たしてくれる。朱桜の与えてくれた美しい世界は、色褪せない。
これから先に何があろうとも、刻まれた過去は変わらない。
朱桜が詫びることなどありはしないのだ。
「ごめんなさい、……ごめんなさい」
闇呪の思いとは裏腹に、朱桜はしゃくりあげながら息を詰まらせて何度も詫びる。闇呪は歩み寄って手を差し伸べた。
けれど朱桜は激しく頭を振る。
ふらりと細い身体が、危うい儚さをともなって暗黒の渦に近づいた。
「朱桜?」
「ごめんなさい、闇呪の君……」
胸の前で祈るように手を組み合わせたまま、ふわりと小さな体が投げ出される。金色の長い髪が舞った。
暗い渦へと堕ちていく朱桜が、何かを呟いた気がした。
「莫迦な、――朱桜!!」
渦に呑まれた体を追いかけるように、闇呪が身を乗り出すと背後から強い力が行く手を阻んだ。伸ばした指先はむなしく虚空をかく。
届かない。
「離せ、麒一」
「いけません、我が君」
「これは天落の法です」
直後、カッと渦から金色の閃光が立ち昇り、少しずつ輝きを失っていく。この光が費えてしまえば、永劫に朱桜を見失ってしまうかもしれない。
「朱桜っ」
「我らが参ります」
「必ず姫君に追いつきます」
いつまでも闇呪を羽交い絞めに留め置くことができないと判断したのか、黒麒麟が光を追うように鬼門へ身を踊らせた。
「麒一、麟華……」
力なくその場に膝をつくと、つっと全ての光が失われた。あとには何事もなかったかのように暗黒が渦巻いている。
「朱桜、どうして……」
禁術――天落の法。
異界へ転じて、何を望むというのだろう。
あの涙の意味は――。
闇呪は知らずに岩肌に爪を立てていた。爪が剥がれても、いつまでも力を緩めることができなかった。




