十章:三 鬼の坩堝(きのるつぼ):守護鳳凰
視界に途の果てが見える。暗い森の終わりを自覚すると、ふっと気がゆるんだ。思わず立ち止まりそうになったが、朱桜は気持ちを奮い起こして前に進んだ。背後を振り返ってみるが、恐ろしい追手の気配はない。
逃げる道中では、鬼に取り囲まれ最期を覚悟した瞬間もあった。
あの時彼らが現れなければ、自分は鬼に侵され、喰らい尽くされていただろう。
間違いなく彼らが、朱桜を救ってくれたのだ。幼い容貌の少年と少女。
はじめは自分達の名を呼べと云った。
けれど、すぐに逼迫した危機に気付いたのか、朱桜を逃がすことを優先したようだった。誰もが恐れる黒樹の森に現れた二人。思えばどうしてこんな処に現れたのか、どうして朱桜を助けてくれたのか、謎に包まれた出会いだった。
彼らの示すとおり逃げてきたが、果たしてあの二人は無事なのだろうか。
そして、自分を導いてくれた先守。呪いに侵されていたが、彼は無事なのだろうか。
ようやく森を出ることに成功すると、朱桜の内に様々な思いが去来した。
鬼の襲撃後は無我夢中で駆けた。見慣れた道筋を外れて闇雲に進んでしまい、黒樹の森をどう抜けてきたのか分からない。当てもなく逃げて、森を出られたことが奇蹟のように思える。森を出てからも不安に突き動かされるように、しばらく歩き続けた。
辺りを見回したが、ここがどこであるのか判らない。
(……どこへ行けば良いのだろう)
森を抜け出ることだけを考えていた。いざ目的を果たすと、不安だけがどんどん大きくなっていく。森を抜けてからどうするべきなのか。あの先守は何と云っていただろうか。何かを示唆された気もするし、何も教えてもらわなかった気もする。
朱桜はふと視界の端に、見慣れた美しい闇を捉えた。
艶やかな闇色が天高く伸びている光景。
鬼の坩堝。
(――闇呪の君)
朱桜はふいに眩暈に襲われたかのように重心を失い、ふらりとその場に崩れた。
体ががくがくと小刻みに震えている。恐れのためか衝撃のためか、疲労のせいなのかわからない。
気が緩んだのか、涙が溢れ出た。
纏っていたものは鬼の襲撃によって、引き裂かれている。履物も失い、裸足で歩み続けていたことにようやく気付く。
(なんとか、森は抜けられた)
生きている。朱桜は改めてそれを実感し、のろのろと身を起こす。
(私は、伝えなければ……)
それだけを考えて走り続けた。それが許されるのか、正しいことなのかは分からない。
けれど。
例えこの先にどのような先途が待っていようとも、この心は偽ることができない。
闇呪を愛している。朱桜にとってかけがえのない真実だった。
ゆっくりと立ち上がろうと身を動かすと、ふと辺りに気配を感じた。恐ろしい追手かと思い、朱桜は弾かれたように顔を上げて身構える。
数人の人影。
一瞬、助けを乞おうと考えたが、すぐに考え直した。
鬼の坩堝を間近に望める場所。人通りの少ない道。正確に所在を把握できないが、それでも辺境であることは分かる。
こんな処で人と出会うことなどあるのだろうか。
芽生えた猜疑心が一気に心を染める。
彼らが鬼ではないと言い切れるだろうか。
朱桜の身に強烈な恐れが蘇ってきた。囚われるわけにはいかない。
「どうなさったのですか」
そっと差し伸べられた手。朱桜は悲鳴を呑みこんで咄嗟に首を振った。
「とにかく、傷の手当てをしなければ」
「触らないでっ」
思わず目の前の手を払いのけてしまう。現れた女は労わるような眼差しをしていた。朱桜ははっとして繰り返す。
「……触らないで、下さい」
目の前の女からは悪意も敵意も感じられない。朱桜は彼らの素性を考え直した。好意を疑うなんてどうかしている。判っているのに、胸の内にある恐れを払拭することができない。立ち上がることも動くこともできず俯くと、さらりと肩から長い髪が滑り落ちてきた。
見慣れない輝きが視界の端に映る。
「そんな……」
朱桜は全身にぞっと鳥肌がたった。信じられない思いで、目の前に広がる自身の髪に触れる。
「どうして、どうして、……こんな、こんなことが――」
見慣れた緋色が跡形もなく失われていた。
思わず指先で拭ってみるが、変化はない。金色の頭髪が輝きを放っている。
消えない証。
「――ああっ、どうして」
何かの間違いではないのか。陛下に真実の名を与えられたわけでもなく、自分が捧げたわけでもない。何かを誓った記憶がないのに、金色を纏っている。
相称の翼は、ただ陛下の想いだけで成ってしまうのだろうか。あの体の不調がその証だったとでも云うのだろうか。
朱桜は自分を抱きしめるようにして、ぎゅうっと力を込めた。熱に浮かされたような苦しみが、いつの間にか失われている。
「違う――、こんな」
相称の翼など望みはしなかった。陛下を愛することはできない。
ただ闇呪の傍に居ることができれば良かった。それだけで良かったのだ。それだけで幸せだった。
けれど。
「こんな姿では……」
会えない。二度と闇呪に会えない。伝えられない。
「もう、会えない」
涙が止め処なく溢れ出て、朱桜にはもう何も見えない。
何も。
希望も、未来も。
ただ架せられた多大な役割が、全てを引き裂いてしまうことだけが分かってしまう。
「――闇呪の君に、……」
会いたいという言葉を、朱桜は呑み込んだ。さっきまで自分を支えていた希望。
今はどこにもない。もう許されない。
まるで奈落の底に呑まれたように身動きできずにいると、ふわりと風が舞った。ばさりと大きな羽音がする。朱桜は導かれるように、濡れた顔を上げた。
まるで黒い炎を纏ったかのような美しい鳥が、朱桜を慰めるように辺りを旋回している。呪われた色彩に囚われているのに、なぜか恐れは感じない。
朱桜はそっと腕を伸ばした。
「慰めてくれるの?」
それが合図であったかのように、旋回を続けながら大きな翼がゆっくりと空から近づいてくる。
朱桜は震える声で請う。
「私はもう、消えてしまいたい」
闇呪に会うことが許されないのなら、塵となって消えてしまいたかった。
けれど、架せられた立場がそれすらも許さない。
だから。
「――連れて行って、……どこか知らない処へ」
何も考えなくても良い処へ、行きたい。
伸ばした朱桜の手が、黒鳥に触れた。自分を乗せて大きく羽ばたく。朱桜は目を閉じて全てを託した。
今はただ、全てを置き去りにして逃げることしか出来ない。




