九章:四 闇の地:胸騒ぎ
闇呪は寝殿の釣殿に立ち、金域の方角を眺めていた。ここから何かが分かるわけでもなく、何の気休めにもならない。わかっているのに、いつのまにか釣殿に足を運んでいた。
愛を以って真実の名を語る。
何の後悔もしていない。それほど心を傾けられることに悦びを感じている。ただ朱桜の気持ちを考えると、本当にそれで良かったのだろうかと考えてしまうのだ。もっと時期を待った方が良かった。
参堂へ立つ彼女を何の術もなく見送る。自分がその不安に耐えられなかっただけだ。突然の告白にどれほど狼狽したのだろう。男女の情愛にも目覚めていない朱桜には、ただ唐突な出来事であったに違いない。
それでも朱桜はその身勝手な行いを受け入れてくれた。
闇呪にはそれだけで充分だった。ただ彼女を失いたくないのだ。だから守る為にできるだけのことをしたかった。
しばらく釣殿に佇んでいたが、いつまでもここに居ても仕方がない。闇呪は吐息をひとつ落として軒廊の伸びる背後を振り返る。
「麒一」
いつからそこに居たのか、麒一がひっそりと立っていた。
「我が君、いかがされたのですか」
いつもの穏やかな声だった。麒一には見抜かれているような気がして素直に答えた。
「本当にこれで良かったのかと考えていた。朱桜に負担をかけたのではないかと」
麒一はわずかに微笑んだ。
「朱桜の姫君は、きっと我が君が考えておられるほど幼くはありません」
「そうだな。……そうなのかもしれない」
麒一の前を横切って軒廊へ歩み出すと、気配がふっと緩むのを感じた。
「我が君、麟華がお祝いをするとはりきっていますが」
「祝い?」
歩みを止めず振り返ると、背後につき従っている麒一が可笑しそうに笑う。
「はい。我が君が翼扶に恵まれたことを盛大に祝いたいそうです」
はりきる麟華の気持ちもわかるが、闇呪はあまり大事にはしたくなかった。
「大袈裟なことをして朱桜を困らせたくない。麟華の気持ちは嬉しいが、そう伝えてくれないか」
「かしこまりました。――ただ、我が君。一言申し上げてもよろしいですか」
「どうした?」
「おめでとうございます」
麒一が深く頭を垂れる。
「麒一」
闇呪は思わず歩みをとめた。
「我らは本当に喜ばしいことだと思っています。我が君が翼扶をお望みになったこと。それは悲観することしかできなかったご自身の立場をのりこえたということではありませんか?」
「……おまえ達には全てを見抜かれているんだな」
麒一は穏やかな目をしている。
「朱桜の姫君にも、我が君の思いは伝わっていると思います」
「――ああ」
きっと麒一の言うとおりなのだろう。朱桜なら全てを受け入れてくれるのかもしれない。禍へと転じるその時まで、あるいは禍と成り果てても、きっと傍に在ってくれる。
自分には手に入れることができないと思っていた翼扶。
朱桜というかけがえのない存在。
(……それでも私は禍となるのか)
翼扶を得て、これほどに守りたいと願っていても。朱桜の在る世を共に慈しみたいと考えていても。
いつかその時はやってくるのだろうか。
あるいは。
闇呪はもう一度金域の方角を眺める。
染みのように胸に広がる嫌な予感。
(――胸騒ぎがする)
朱桜と共に穏やかな時を過ごすことを、天は許すのだろうか。やはり許されないのではないか。そんな気がしてならない。
真実の名を捧げて脈を手に入れても。
(朱桜は無事に戻ってくるのだろうか)
やはり不安が燻ってしまう。
闇呪は最悪の予感を吐き出すように深く息をつく。
誰よりも幸せになってもらいたい翼扶。
だから真実の名を捧げた。
彼女へと繋がる脈。
(「――何か在ったときは、私を呼んで欲しい」)
金域へと送り出すときに、朱桜にはそう頼んだ。
彼女は窮地に立ったとき、はたして自分を呼んでくれるだろうか。
拭えない不安。
朱桜の無垢な優しさを知っているからこそ、どうしても不安が消えないのだ。
翼扶のために禍と成り果てること、滅びること。
闇呪はそれを厭わない。魂魄をかけて朱桜を守る。
けれど。
朱桜は――。
朱桜はきっとそんなことを望まない。
「我が君?」
金域の方を眺めたまま立ち尽くしていると、再び麒一に声をかけられた。闇呪ははっとして歩き始める。
染みのように広がる暗い予感を覚えながら。




