八章:三 闇の地:花見の宴2
「あ、あの、いえ、……大丈夫です」
やっとの思いでそれだけを答えた。高鳴る鼓動が止まない。衣装の触れ合いそうな距離に感じる気配。朱桜は鼓動が聞こえてしまうのではないかと思わず身を竦める。
不自然だとわかっていても彼の顔をまともに見られない。
「主上、姫君。とにかく満開の朱桜に乾杯しましょう!!」
麟華と麒一が、高杯に用意された提子から祝杯を注いだ。朱桜は杯を手にしてようやく顔を上げ、ちらりと闇呪を窺う。
杯を口にする仕草や長い指先。所作の全てに、今まで意識したことのなかった大人の色気を感じる。同時に、朱桜は唐突に自分が女であり、妃であることを意識した。
「本当に大丈夫か?鬼の風(風邪)にでも当てられたのではないか?」
こちらをのぞき込んでくる端整な顔。至近距離に迫った闇呪の気配に、朱桜は呼吸が止まりそうになる。
「あ、あの、その、……大丈夫です」
狼狽をごまかすように手にしていた杯を一気に煽って、朱桜はわけのわからない理由をつける。
「きっと、酔いがまわってきただけです」
呑む前から酔うはずもないが、平常心がどこかへ飛んでしまっていた。
「さぁさぁ、主上、姫君、どうぞ」
麟華が提子を手に立膝でやってくる。空になった杯になみなみと酒を注いだ。朱桜は何も考えず、ぐっと杯をあおる。
「姫君ったら、顔に似合わず素敵。どんどんいきましょう」
「はい」
「朱桜、あまり無理をしない方が……」
「大丈夫です」
闇呪が困ったようにこちらを見つめている。彼が身動きする度に、頭髪を結い上げたところから垂らされた髪飾りが触れあい、しゃらりと音をたてた。
彼の傍らで無邪気に過ごす日々。常に幸せで満たされている。けれど闇呪にとっては物足りなかっただろう。妃であることを心にとめながら、朱桜は自分が女であることは失念していたのだ。華艶の美女に嫉妬することもできないほど幼い。本当に幼稚な姫君であったに違いない。
朱桜は突然意識してしまった戸惑いを打ち消すようにぐびぐびと呑み続ける。やがて段々と気持ちが良くなってきた。いつのまにか早鐘のように打っていた鼓動が、闇呪のせいなのか酔いのせいなのかわからなくなっている。ふわふわとした気分で、全てが楽しければどうでも良い気がしてきた。梢から舞い落ちる花びらが、くるくると踊っている。それがとても楽しそうに映る。
「とても綺麗。まるで花びらが闇呪の君を祝福して舞っているみたいです」
「いや、きっと祝福されているのは君だろう」
「いいえ、そんなことはありません」
朱桜は高杯に手をついて身を乗り出した。
「だって闇呪の君はとっても素敵です。私見惚れてしまって、言葉が出てきませんでした。朱桜の花も絶対そう感じているはずです」
「――酔っているのか?」
「いいえ」
そう答えながらも、乗り出していた体はふらりと重心を失っている。朱桜が緩慢な意識で態勢を立て直そうとするよりはやく、しっかりと支えてくれた何かがあった。ほっと安堵できる気配。心地の良い温もり。朱桜は目を閉じてそのまま身を任せた。
「朱桜」
その呼びかけに答える事ができたのかどうか。
すうっと眠りに引き込まれながら、朱桜はしゃらりと何かが触れ合う音を聞いていた。
「あらあら、姫君ったら」
「我が君、姫君を居室までお連れ致しましょうか?」
腕の中で眠りについてしまった朱桜を、黒麒麟が取り囲むようにして覗き込んでいる。闇呪は麒一の提案に頷いて朱桜を動かそうとするが、しっかりと袖を握りしめられていて離れない。
「いや、しばらくこのままで良い。――やはり参堂での疲れが出たのだろう」
朱桜は心地よさそうに身を預けている。無防備な寝顔には自分に対する恐れが微塵もない。禍として生まれた闇呪を祝福してくれた姫君。それが嘘ではないことも、心から自分を慕ってくれていることも、日々を過ごしていると痛いほど伝わってきた。
闇呪は朱桜を支えたまま、頭上に広がる美しい花を仰ぐ。梢の白さも、花の色も、これほどに鮮やかだっただろうか。
見慣れた敷地の全てが、記憶に刻まれたものとは異なっているように感じる。自分の生まれたこの世は、これほど美しかったのだろうか。
朱桜と出会ってから、あきらかに世界が変わった。あるいは自分が生まれ変わったのかもしれない。
誰も拭うことのできなかった罪悪感を、朱桜は見事に払拭してくれた。
心からの祝福。
決して与えられることはないと思っていた境地に、今は立っている。
朱桜が与えてくれた至福
泣きたくなるような穏やかな世界。
はらりと美しい花弁が、うっとりと横たわる朱桜の頬や髪に舞い落ちる。闇呪はそっと花びらを払い、指先で彼女に触れる。
愛しい姫君。
金域から無事に戻った朱桜を見たとき、気がついてしまった。
朱桜を案じるのは、赤の宮との約束があるからではないのだと。
彼女を失うことを恐れているのは、自分自身。いつのまにか暗い宿命に占められていた心が、彼女で満たされていた。
朱桜と共にある世界。それは眩い。
彼女に与えられたように、自分は彼女に何かを与えることが出来るのだろうか。幸せであると、心から笑ってもらえるような世界を。
朱桜のために魂魄があるのなら、もう宿命だけに縛られることはない。生きていることを嘆く必要もない。
触れても目覚めることのない朱桜を眺めながら、闇呪は苦笑が浮かんだ。
無邪気に眠っている姫君。慕ってくれていることは疑いようもない。ただ女として妃であるという自覚があるのかどうか。
「朱桜にとって、私は父親のようなものだろうか」
「あら、姫君はそこまで幼くありませんよ、主上」
豪語する麟華の隣で、麒一も頷いている。
「私も同感です」
「――そうだな」
たしかに日毎に美しく花開いてゆくのがわかる。この地に迎えた頃のような幼さもない。けれど無邪気に慕ってくれる朱桜を感じるたびにわからなくなるのだ。
いつの日か、彼女が男女の情愛に目覚めた時。
妃であることを喜んでくれるのか。
自分を愛してくれるのかどうか。闇呪にもそれだけはわからなかった。




