八章:ニ 闇の地:花見の宴1
朱桜が自身の居室をかまえている奥対屋へ戻ろうとすると、麟華が楽しそうに提案する。
「主上、姫君。せっかくだから花見の宴にしましょう!」
朱桜は「え?」と呟いて麟華を振り返った。麟華はすっかりその気になっているようで、声が弾んでいる。
「だから、姫君はまだ着替えちゃ駄目よ。参堂のための盛装だけど、華やかでとっても綺麗だから、花を愛でるようにその衣装も主上に楽しんでいただきましょうよ」
「え?」
朱桜は思わず闇呪の様子をうかがってしまう。
たしかに衣装はいつもより華やかだが、自分に似合っているとは限らない。たしかな自信もない。けれど、彼の目にどのように映っているのかは気になった。せめて少しでも視界を飾ることができるだろうか。女らしく見えるのだろうか。
ぐるぐるとそんなことを考え始めると、朱桜は今更ながらどっと恥ずかしさが込み上げてきた。
「麟華。宴も悪くないが、朱桜は参堂で疲れているんだ。盛装を愛でる私達は良いが、本人は堅苦しくて窮屈だろう」
闇呪が気遣うようにこちらを見た。朱桜は頬が染まるのを自覚しながら「大丈夫です」と答えていた。
麟華は朱桜に意味ありげな笑みを向けてから、勢いの良い声で闇呪に告げる。
「そういうわけで主上、お召し変えをお願い致します」
「何だって?」
闇呪は意味が分からないという表情をしている。朱桜も麟華の提案の意図が判らない。麒一を振り返ってみると、やれやれと溜息をついてはいたが異論はないようだった。
「せっかくの宴ですから、主上にも着飾っていただきます。姫君にも主上の盛装を愛でていただきたいですもの」
依然として意味不明な言葉を聞いているという顔のまま、闇呪が立ち尽くしている。傍らで様子を見守っていた麒一がすっと歩み出た。
「我が君。麟華がこういうことを言い出したら、素直に言うことを聞くしかありません」
「おまえまで何を言い出すんだ」
「良いではないですか。せっかくの宴です。趣向を凝らすことは悪いことではありません」
「朱桜はともかく、私が着飾って一体何の楽しみがあるというんだ」
麒一の視線がふっと朱桜を捉える。麟華と同じように何かを含んだような笑み。朱桜ははっとした。黒麒麟は自分の何気ない一言を覚えていたのだ。ようやく彼らの意図を悟り、朱桜はみるみる顔を火照らせた。
「我が君、ともかくご自身の居室へお戻りください。お召し変えをいたします」
「麒一」
「さぁ、我が君」
口調は柔らかだが、どこか有無を言わせない迫力を漲らせて、麒一が闇呪と共に廊を戻っていく。
「よし、成功」
傍らで麟華がぐっと握りこぶしを作る。
「さてと」
麟華は悪戯っぽく笑って朱桜を見た。歩み寄ってくると、勢い良く肩を叩かれた。
「これで姫君の希望通り、主上の盛装をお披露目できるわよ」
「――やっぱり、私のせいで……」
朱桜は恥ずかしさの余りうな垂れてしまう。闇呪が金域の黄帝のように着飾ったら素敵だろうなと云った記憶がある。まさかそんな他愛ない一言を、黒麒麟が実現してくれるとは思いもよらなかった。ひたすら闇呪に申し訳のない気持ちが込み上げてきた。
「あら、朱桜の姫君が気に病むことないのよ。単に私達が主上を飾りたいだけ。それを姫君に愛でてもらいたかったの」
麟華の声は素直な喜びに満ちている。朱桜は黒麒麟の好意を心から楽しもうと思えた。
「ありがとう、麟華」
「それはこちらの台詞よ、姫君。本当に着飾ったあの方は無敵なくらい素敵なのよ。絶対に姫君の期待を裏切らないわ」
朱桜は自信満々な麟華が微笑ましくなった。闇呪と守護の絆を感じるたびに、心が和やかな思いに満たされる。
「さて、宴の仕度をしなくちゃいけないわね。はりきって盛り上げるわよ」
力強くはりきる麟華に取り残されないように、朱桜はあわてて隣に並んだ。
「私も何かお手伝いをします」
「あらあら、何を仰るやら――、姫君はご自身の宮でゆっくりしていて」
「え?だけど」
「宴の仕度が整ったらお迎えにあがるわ」
云い終わらないうちに、麟華は嬉しそうに廊を駆け抜けていった。
闇呪の守護である黒麒麟は、驚くほどの短時間で宴の仕度を整えたようだ。朱桜が促されて内庭へ赴くと、見事な宴の席が設けられていた。自分のために用意された席まで歩み寄ると、急に胸が高鳴りはじめる。満開の梢が頭上から伸びていて、少し視線を上げると視界一杯に鮮やかな色合いが広がる。
心地の良い風が吹くと、ひらひらと小さな朱の花びらが舞った。
朱桜が席に落ち着くと、麒一と麟華も傍らの席についた。朱桜はどきどきする胸を押さえながら、真正面に見える寝殿の広廂を見る。
じっと闇呪の登場を待っていると、結い上げた髪を梳くような勢いで風が内庭を吹き抜けた。辺りの中空にふわりと花弁が舞い散り、視界を飾る。
くるくると舞い踊る芳把の向こう側で、ゆっくりと寝殿の廊から闇呪が現れた。
朱桜はその姿を見た瞬間、巨木で飾られた内庭の美しさが遠ざかるのを感じた。金域ではじめて黄帝に拝謁した時でさえ、言葉を失うほどその姿に囚われた記憶はない。
高い位置で結われた艶やかな癖をもった黒髪。恐れるはずの色彩は吸い込まれそうに深く、髪飾りや衣装の差し色をどこまでも際立たせる。
藍を基調とした袍に龍文の表袴。装束の中心を占める鮮やかな平緒と、背後を飾る下襲の裾。この上もなく高雅な姿は滄国の正装だった。
朱桜は圧倒されて言葉を失ったまま、ぼんやりと闇呪が滄国の太子であったことを思い出していた。
広廂の中央から簀子へおり、闇呪はそのまま内庭へと降り立つ。
こちらへ歩み寄りながら、彼は深い双眸で真っ直ぐ朱桜を見つめた。ふわりと笑顔を向けられた瞬間、朱桜は呼吸がとまりそうな甘い痛みに襲われる。
言葉が出てこない。切なくて、苦しい。
「朱桜、やはり疲れているのではないか?」
設けられた席に座した闇呪がこちらを気遣ってくれる。聞きなれている筈の声なのに、なぜか戸惑いを感じる。




