七章:三 闇の地:ひとひらの花
先守である華艶を見送ってから、一気に緊張が緩んだのだろう。闇呪は居室の脇息に寄り掛かったまま、まどろんでいた。
「――――よ。せっかく、姫君が……――」
「駄目で――、お疲れのようですから……――」
どこからか話し声が聞こえる。闇呪はゆっくりとまどろみから戻ってくると、声のした方に視線を向ける。
格子の向こう側に人影が動いているのがわかる。再び耳を澄ました。
「とにかく戻りましょう。出直したほうが良いと思います」
「起こしてしまえばいいのよ。主上はそんなことでお怒りにならないわ」
「麟華。そういうことではなくて、お疲れのようですから」
「だったら、なおさらこの果実を召し上がっていただくべきよ」
「声が、声が大きいです。あの、だから、麟華。今はそっとしておくべきだと」
朱桜の声は消え入りそうな小声だが、麟華はいつもと変わらない。埒のあかない二人のやりとりはなかなか決着がつかないようだ。闇呪は助け舟を出すために広廂へと歩み出た。
「あ――」
自分を見つけた朱桜の動きがとまる。直後、何かの病ではないかと思うほど、みるみる顔色が紅潮していく。闇呪は込み上げてくるおかしさを堪えながら二人に近づいた。
「あ、あの、申し訳ございません。お休みのところを――」
平伏しそうになる朱桜の袿の袖を掴んで、闇呪は咄嗟に動きを封じた。朱桜は頬を染めたまま、何かいたたまれないことでもあるように頭を垂れた。
「ごめんなさい」
「何も謝ることはない」
「そうよ、朱桜の姫君ったら気を使いすぎよ。もっとわがままを云ってもいいのよ。何と言っても主上のお妃様なんですから」
隣で大きな顔をしていた麟華は、いつのまに現れたのか鬼のような形相をした麒一に引っ張っていかれた。きっと態度を改めろと説教されているに違いない。
闇呪は朱桜が抱えている小さな籠を取り上げた。
「これは?」
「それは桜の実だそうです」
「桜? 異界の?」
なぜそんなものがここにあるのかと驚いたが、朱桜はきょとんとした顔でこちらを仰ぐ。
「私もよく存じないのですが麟華が採ってきてくれた物です。とても美味しいので、闇呪の君にも差し上げてはどうかと。やっぱり珍しい物なんですね。でも、……あの、お休みのところ邪魔をしてしまってごめんなさい」
闇呪はふっと気が抜けるのを自覚する。華艶に感じるような息苦しさはどこにもない。朱桜もはじめこそ些細なことで申し訳ございませんと平伏していたが、今は必要以上に恐縮することも少なくなってきたようだ。
それは麟華や麒一の功績も無視できないのかもしれないが、朱桜の素直な変化を感じるのは悪くない。関わりを持つとはこういうことなのかもしれない。
「せっかくだから、いただこう。――朱桜、とりあえず座らないか」
「あ、はい。ありがとうございます」
内庭へ続く簀子縁に腰掛けると、朱桜は傍らで匂欄に手を添えるようにしてするりとその場に落ち着いた。まるでひとひらの花が舞い落ちるような仕草だった。
女はすぐに大人になる。
ふっと華艶の台詞を思い出した。華艶のまとう強烈ともいえる艶麗さはないが、それでも朱桜の所作は明らかに少女にはない優美さがあった。
(――いつのまに)
以前の自分なら、きっとそんなことにも気づくことはなく過ごしていたに違いない。この呪われた地にあっても、かくじつに時は巡っている。朱桜は禍の妃となることを、閉ざされた自身の未来をどのように受け止めているのか。それを問うことは自分の宿命を思い知る結末でしかない。わかっていても闇呪はなぜか聞いてみたくなった。
「君はこの闇の地に在ることをどう思う?」
「え?」
朱桜は問いかけの意図を考えているのか、ころころと手の中で小さな果実を転がした。
「私は……、そうですね、今は良かったと思います」
はっきりとした答えだったが、闇呪は思わず耳を疑う。思えば彼女は地の果てでも毎日が楽しいと笑っていた。幼さゆえの感想だと受け止めていたが、よく考えるとこの地に相応しい感想だとは思えない。
言葉を失っていると、朱桜はその沈黙をどのように受け止めたのか慌てて続けた。
「その、はじめは噂を信じて恐ろしい処だと思い込んでいました。だから縁を結ぶというお話を聞いたとき、正直目の前が真っ暗になりました。闇呪の君にお会いしたこともなかったのに、噂を信じて勝手に想像して恐がって、それは本当に申し訳なかったと思っています」
自分が感じていることと根本的に何かが違う。闇呪はそれを確かめてみた。
「たしかに君が思うほど恐ろしい処ではなかったのかもしれない。それでもここに鬼の坩堝があり、多くの姫君が亡くなったのは事実だ。そして、私がこの世の凶兆であることも」
「姫君の不幸は闇呪の君のせいではないと思います。私がそうだったからわかります。ここは鬼がわだかまってしまう場所だから、どうにもならない出来事が起きてしまう。闇呪の君はそのどうにもならない出来事をどうにかしようと努めておられます」
鮮やかな緋色の瞳には迷いがなかった。
「それは守護に聞いたのか?」
「はい。私が鬼の坩堝に迷い込んだとき、闇呪の君はご自身の剣を抜くことができず、その身に鬼を受け止めたのだとそう聞きました。自身に与えられた剣を鬼の昇華のために預けているのだと。私はそれを聞いてとても驚きました」
「禍となるべき者の行いではないと?」
皮肉をこめて尋ねてみると、朱桜は意外なことを云われたという顔をする。
「どうしてですか? 闇呪の君がわだかまる鬼を放っておけないのは当然です。だって私を助けて下さるくらいですから、この世にとって思わしくない状況を見て見ぬふりはできないでしょう。闇呪の君の行いは、この世の助けになっているのだと思います。けれど、剣を預ける。いくら正しい行いのためとはいえ、それは天籍にある者にとって容易なことではありません」
「自ら自身の護りを欠くことが稀有だと、そういう意味か」
「はい。私はとても驚きました」




