七章:一 闇の地:ほのかな想い
黒麒麟がそろって地の果てと称する場所は、朱桜の想像を裏切って美しい処だった。どこまで続いているのかわからない草原の先に、天へと突き上げる鬼柱が目に入る。さらに霞む遠方には山並みを思わせる影が淡く滲んでいた。
天帝の加護が費えつつある昨今において、空の色合いは鈍い。朱桜は輝かしい蒼天を知らないが、もし豊かな世を取り戻すことが出来れば、きっとこの地の果てはもっと鮮やかに生まれ変わるだろうと思えた。
ゆっくりと踏み出すと、背の低い草がしっとりと足音を吸い込んでくれる。
「何もないところでしょう?」
麟華は腰に手をあてたまま、何の興味もなさそうに辺りを眺めた。朱桜は麟華を振り返って抗議するように声を高くした。
「そんなことありません。地の果てなんて云うから、私はもっと恐ろしげな処なのかと思っていました。ここは――、眺めているとなんだかほっとします」
意外な反応だと言いたげに首を傾げてから、麟華は改めて辺りを見回した。
「そうね、云われてみると確かにそうかもしれないわ。昔はもっと殺風景だったのよね。草も生えず、土くれだけの荒野だったの。主上が悠闇剣を手にしてからかしら。少しずつ緑を取り戻し始めて、いまでは一面の緑」
「闇の地は思っていたよりずっと素敵な処だと思います。金域のように気おくれがするような輝きもなくて、私には心地いいです」
麟華や麒一にわがままを云って、朱桜は闇の地を散策するようになった。見て回った限り恐れるような処はない。朱桜の感想に麟華は嬉しそうに声を弾ませた。
「姫君にそう云ってもらえると嬉しいわ」
そのまま「よし」というと、麟華はあっというまに本性に変幻を遂げる。気持ちよさそうに辺りを駆けて、しっとりと柔らかな草に黒光りする体をこすりつけるように横たわった。
朱桜は麟華の無邪気な様子に声をたてて笑いながら、同じようにその場に座り込む。
思い切って寝転がってみると、空だけしか見えない。不思議な解放感があった。
「気持ちいい」
横たわったまま、うっとりと目を閉じていると近くで草を踏みしめる音がした。麟華の足音だと気にもとめずにいると、気配が身近でとまった。
「朱桜?」
「!!」
声を訊いた瞬間思わず飛び起きる。一気に血の気が引いた。
直後、現れた闇呪の顔を見つけて、朱桜はどっと必要以上の熱が恥じらいと共に戻ってくるのを感じた。どくどくと鼓動が波打っている。掌に変な汗がにじんだ。
「あ、あの、これは……」
「君は驚くようなことばかりする」
朱桜のはしたない行いを責めることはなく、闇呪は向こう側で横たわっている麟華を見て笑った。
「麟華の影響かもしれないな」
「あの、でも、とっても気持ち良いんです。一面に空しか見えなくて」
素直に感想を述べると、闇呪はおかしそうに笑いながらゆっくりと傍らに座り込む。
「昔、私にも覚えがある。ここに横たわって空を見ていた。……まさか君が同じ体験をするとは思わなかったが」
返す言葉がなく、朱桜はただ恥じ入ってしまう。
闇呪は懐かしそうに空を仰ぎ、やがて鬼柱を見つける。綺麗な横顔から笑みが失われていくのがわかって、朱桜は思わず声をかけた。
「私、闇の地はとても素敵な処だと思います」
深く濁りのない瞳が朱桜を捉えた。闇呪がどんな思いでこちらを見つめているのか分からない。それでも視線を逸らすと全てが嘘になりそうで、朱桜はじっと彼の眼差しを受け止めていた。
「緋国よりも?」
唐突な問いかけだった。朱桜はすぐに比較ができない。
「それは――、緋国も美しい処だったと思います。だけど、私が知っているのは限られた場所だけでした。こんなふうにあちこち見て回れることなどなくて……。だから今は毎日が楽しいです」
「私には故郷というものがよくわからない。生まれ育った地を離れるのは寂しいと聞くが」
「闇呪の君にも素敵な故郷があると思います」
「私にも?」
朱桜は本当に地の果てまで続いているかのような一面の草原に目を向けた。
「この闇の地です。穏やかでとても素敵な処ですから」
心からそう思える。自分にとっても既に居心地の良い場所になりつつあった。今ここを立ち去れと云われたら、きっと緋国を出たときよりも哀しい思いに囚われる。
「ここが故郷。……そんなふうに考えたことがなかった」
闇呪は何か物思いに耽るように、じっと遠くを見ている。朱桜はそれ以上何かを語ることができず黙って座っているだけだったが、息苦しさは感じない。
こんなふうに傍らにいられることが嬉しかった。闇呪はごく自然に話してくれる。朱桜の語ることに戸惑ったり笑ったり、彼に心を許すことは容易だった。
なぜ人々が闇呪を残忍で非情だと信じているのかがわからない。そんな噂が広がったことが不思議に感じられるほどだった。
しばらく静寂に耳を傾けていたが、やがて闇呪が立ち上がった。朱桜が彼を仰ぐと、視界の端に麒一の姿が映る。
「闇呪の君、お戻りになるのですか?それなら、私もご一緒に」
「いや、君はこちらにいると良い」
穏やかに言いおいて、闇呪は現れた麒一の元へ歩み寄る。まるで風にさらわれたようにあっという間に二人は姿を消した。
(きっと、華艶の美女がおいでになったのだ)
闇呪が帰途についた理由を思うと、ちくりと胸が痛む。どうして胸が塞ぐのかわからない。闇呪にこれ以上望むことなどないはずなのだ。いつか彼の助けになれるように、それだけを見失わなければいい。
(だけど、――)
朱桜は振り払うように大きく息を吐き出した。これ以上は望まない。
それは自分を苦しめる望みになる。そして闇呪を困らせるだけなのだ。




