六章:四 闇の地:兆し
定例の参堂のために黄帝から贈られる華やかな衣装。麟華は綺麗だと褒めてくれるが、朱桜は気後れがしていまだに慣れない。慈悲深い黄帝の意志なのか、華艶の気遣いなのか。参堂は拠りどころのない自分にはありがたい配慮だったのかもしれない。けれど、いまとなってはその配慮が自分の弱さを映しているようで、黄帝に言葉を賜るたびに恥じ入りたくなることがあった。
だからといって自分から辞退することも許されない。勅命に背く理由などないのだ。
朱桜は着飾った自分に息苦しさを覚えながら、使者の到着を待っていた。
「朱桜の姫君。我が君がおいでになられました」
訊き慣れた麒一の声を訊いたとき、朱桜は聞き間違えたのかと思った。あるいは麒一が伝え間違えたのかと。
けれど、その思い込みは麟華の反応ですぐに覆された。
「きゃー! 主上、主上! ぜひご覧になって下さい。いつか着飾った姫君を見て頂きたいと思っていたけれど、ついに私の念願が叶うのね。麒一、よくやったわ」
「私は我が君に何も申し上げていない。こちらにおいでになったのは我が君のご意志だ」
朱桜が唖然としている前で、麒一は耳を塞ぐ真似をして麟華の甲高い声に顔をしかめている。
さらりと衣擦れの音がして闇呪が正面に立った。どこか違う世界が覗いているのはないかと錯覚するくらい美しい眼差しがこちらを見つめている。
「姫君」
声を聞いた瞬間、朱桜ははっと我に返った。闇呪を仰いでうっとりと呆けている場合ではない。かっと赤面するのを感じながら、あたふたとその場に平伏した。
「も、申し訳ございません」
あまりの失態に逃げ出したくなりながら声を振り絞る。
「君が詫びる必要はない。姫君、面を上げなさい」
穏やかなのによく通る声。朱桜はゆっくりと顔を上げた。
艶やかな闇。数えるほどしか見たことがない闇呪の姿。静寂と孤独を閉じこめて結晶化したような、圧倒的な美しさがあった。やはり恐れは感じない。
ゆっくりと闇呪がその場に座す。はじめてきちんと向かい合った気がして、朱桜は更に鼓動が早くなるのを感じた。
「朱桜の姫君」
とくりと鼓動が止まりそうになった。急激に体温が上がるのを感じる。いつか麟華が教えてくれた。闇呪が朱桜の名を与えてくれたのだと。けれど、どこかで信じられずにいたのだ。そんなふうに呼んでもらえる日が訪れるとは思ってもいなかった。
朱桜――故郷を飾るあの美しい花の名を、彼が与えてくれた。
美しい愛称を許されなかった自分に。
いっきに胸がいっぱいになって、つんと込み上げてくるものがあった。朱桜が思わず俯いてしまうと、闇呪はその様子をどんなふうに受け止めたのか、すぐに麟華を振り返った。
「麟華、ここに御簾を。――姫君、この姿が恐ろしいのなら無理をすることはない」
「ち、違いますっ」
朱桜は思わず身を乗り出すようにして叫んでしまう。
「私は恐ろしくなんてありません。――恐ろしいのではなくて、その……、闇呪の君はとてもお綺麗だし、そんな方に朱桜なんてもったいない愛称を頂いたのだと思うと、胸がいっぱいになって――」
誤解を全力で否定した処までは良かったが、既に何を伝えるべきなのかわからない。素直に胸の内を語ってみようとするが、ただ恥ずかしい失態を塗り重ねているような気がする。
「だから――、その、私はただ闇呪の君とお話できることが嬉しくて、恥ずかしかっただけです」
体内が沸騰しそうなくらいに恥じ入っていると、ふいにどしんと衝撃があった。
「姫君ったら愛らしい」
麟華に押し潰されそうな勢いで抱きつかれていた。きっと闇呪にも幼いのだと呆れられたに違いない。もしかすると朱桜と名を与えたことを後悔しているかもしれない。
「朱桜の姫君」
恥ずかしさで頬を染めていると、闇呪が再び美しい愛称を繰り返した。
誰でもない自分を呼んでくれている。その美しい花の名で。
そっと視線を移すと、彼は微笑んでいた。
「私は君の纏う緋色を美しいと感じる。君は故郷で緋色を見慣れているのかもしれないが、私にとっては朱桜の花でも足りないくらい鮮烈に映る。だから、これからも君を朱桜と呼ぶことを許してもらえるだろうか」
「も、もちろんです」
はりきって返事をしてから、朱桜はまたしてもはっと我に返る。
「あの、――こ、光栄です。闇呪の君、ありがとうございます。それに、あの時も言いつけに背いた私を救っていただいて、本当にありがとうございました」
思わずがばっと勢い良く平伏する。彼の綺麗な眼差しや微笑みを正視することができない。熱に浮かされているように全身が火照っていた。苦しいくらい鼓動が早い。
「朱桜、君が気に病むことはない。このような呪われた地に迎えながら、君を独りにした私に非がある。このとおり私は快復したのだし、むしろ礼を言うのは私の方だ。ありがとう」
金域で黄帝に言葉を賜るよりも、朱桜にとっては彼と交わした言葉の方が輝いているように感じられた。いつか麒一が云っていたように、闇呪は決して自分を厭っていたわけではなかった。彼は彼なりに自分を気遣ってくれていたのだ。見守ってくれていたのかもしれない。それなのに、どうして今までそんなふうに考えることができなかったのだろう。
自分で築いた狭い箱庭で、周りに目を向けることもなく内ばかりを見ていた。
居場所は、――心の拠りどころは、与えられるものではなかったのに。
自分で手を伸ばして、手に入れるものなのに。
朱桜は顔を上げた。
同時に麒一の声が響く。
「我が君、金域の使者が参りました」
闇呪は頷いてその場から立ち上がる。まっすぐ朱桜を見つめた。
「姫君、気をつけて」
それが取ってつけた台詞ではないのだと素直に受け止められる。そのまま踵を返そうとした闇呪に、朱桜は思わず声をかけた。
「闇呪の君。私がこちらに戻ってきたら、またこんなふうにお話していただけますか」
「私と――?」
闇呪は突然の申し出が信じられないように問い返してきた。朱桜は早鐘のような鼓動を感じながら深く頷いた。
「はい。私はもっとこの地のことも、闇呪の君のことも知りたいです。……いけませんか?」
一呼吸の間があった。闇呪はふっと自嘲的に笑う。何かに降参したような、あるいは安堵したような、言いようのない戸惑いのようなものが滲んでいる。
朱桜は彼を困らせたのだと思ったが、闇呪は意外なことを口にした。
「君がそう望んでくれるのなら、私に断るような理由はない。――朱桜の姫君、ありがとう。君が戻るのを待つのも、悪くない」
トクリと、胸の内で何かが変わっていく音がする。
朱桜は胸を占めた気持ちを隠すこともせず表した、――最高の笑顔で。
「私、できるだけ早く戻ります。だから、――」
朱桜の云いたいことを理解したように、闇呪は小さく頷いた。もう一度「気をつけて」と声がする。
「行ってまいります」
朱桜はそれだけを伝えるのが精一杯だった。




