六章:三 闇の地:変化
闇呪は自身の住まう本殿から、天へと駆け昇る鬼柱を眺めていた。
人々が恐ろしいと語る光景。しかし闇呪には哀しくなるほど美しく感じられる。この辺りの感覚の違いが、既に凶兆である自分を表しているのかもしれない。
そっと鬼の坩堝の美しい柱から目をそらし、闇呪は快復してから考え続けていることに再び思考を奪われた。
身の犠牲を払って鬼を封じ、闇呪は昏倒した。その看病に尽くして調子を崩した朱桜。
高熱に臥せながら、朱桜は闇呪の姿を見つけて安堵したように微笑んだ。再び眠りに落ちるまでのほんの一瞬の仕草。
美しい緋色が、脳裏に焼きついている。
彼女が元気を取り戻してからも、闇呪はこれまでと同じようにできるだけ関わりを避けて過ごしている。
けれど、彼女の微笑みを思い出す度に考えてしまう。
このままで良いのだろうかという思いが、どこからか流れ出して思考を奪っていくのだ。
あの微笑みの裏に隠された孤独を知ってしまったからだろうか。
赤の宮との約束。できる限り六の君を守ると誓った。
守るということが、どういうことなのか。
方法も手段も間違えていたのかもしれない。甘く見ていたのだ。
六の君――朱桜が鬼の坩堝に踏み込んで見せた、圧倒的な孤独。
彼女の行動に華艶の悪意が関わっていないと言い切れないが、それでもあの時に感じた思いは間違いなく朱桜の内から溢れ出たものだろう。
自分の存在を否定するほどの痛み。
闇呪にも覚えがある。
ここに在ることが許せない――誰でもない、自分自身が。
完璧な自己否定。
朱桜にまつわる噂は知っていた。哀れな姫宮。祝福されない出生。
けれど緋国の女王が真実を語った時、闇呪の中で姫宮に対する考えが変わった。強く愛されて、生きることを望まれている。自分とは対極にある恵まれた娘なのだと。
そんなふうに、どこかで朱桜を羨んでいた。
朱桜だけではない、これまでに縁を結んだ姫君に対してもそうだったのだ。自分と関わることが不幸なのだと言い訳をして、頑なに心を閉ざしていた。
彼女達は禍である自分とは違う。恵まれない境遇にあっても、この世に生きることを許されている。
生を許された者と、許されない者。
意味のない境界を作って、踏み込むことも立ち入ることも禁じた。
本当は自分が一番知っていたのではないか。
鬼が自身の心を映す鏡であると知った時、自分を不幸にするのは、自分の心なのだと。
朱桜の内に蔓延していた孤独。
それは痛いくらいに闇呪にも馴染んだ思いだった。自分を許さない痛み。
同じだった。何も変わらない。
朱桜も自分と同じ痛みを感じていた。
彼女だけではない。きっと誰でも同じなのだ。心の内に形作られる痛みを比べることなどできない。
自分だけが苦しいなんて、思いあがっている。
闇呪は再び天へと昇る鬼柱を眺めた。
決して比べることのできない人々の苦痛。
闇呪は自嘲的に笑う。そんなことも知らずに、誰かを守ることなど出来るはずがない。
ただ華艶の悪意から遠ざけるだけでは、朱桜を守ることはできないのだ。
闇の地に迎え入れることを決めたときに、もっと覚悟していなければならなかった。
何度考えても、奪われた思考の行き着く先は決まっていた。
決まっているのに、闇呪にはどうすれば良いのかわからない。
「我が君、姫君の御仕度が整いました」
ふいに間近で麒一の声がした。闇呪は思考を断たれてはっとしたように顔を上げる。麒一が不思議そうに首を傾けてこちらを見つめていた。
「どうかなさいましたか?」
「いや、何でもない。――金域からの使いは?」
「はい、まもなく到着するはずです」
「そうか。では、私が見送ろう」
云い終わらないうちに、麒一が驚いたように表情を動かす。守護のあまりの反応に、立ち上がりかけていた闇呪は思わず問い返した。
「私は何かおかしなことを云ったのか?」
「――はい」
麒一は既にいつもの穏やかさを取り戻している。
「いつもは姫君の参堂をお伝えしても、我が君はただ気をつけてと仰るだけでした。まさか自ら見送られるとは思っていませんでしたので」
少し驚いてしまいましたと、麒一は微笑む。
「しかし、姫君はお喜びになるでしょう。我が君、こちらです」
すっと音もなく踵を返し、麒一が朱桜の元へ案内してくれる。自分が目の前に現れることを朱桜は喜ぶのだろうか。麒一について廊を渡りながら、闇呪は一瞬だけいつもの暗い思いに囚われたが、それはすぐに振り払った。
この地に迎えることを受け入れたとき、既に覚悟していなければならなかったことなのだ。
もう言い訳は必要ない。関わる事を避けて何かを見落としてからでは遅い。
そして。
たしかに朱桜なら自分が見送ることを喜ぶのかもしれない。
脳裏に焼きついた美しい緋色。
闇呪はふいにふわりと風を感じた。視線を向けると内庭に移植した朱桜の巨木は、いつのまにか花の時期を終え眩しい新緑で染められている。




