五章:四 闇の地:負の連鎖
辺りは音もなく静かだった。夜色に包まれた森の静寂に恐れは感じなかった。
奥深い森を進むに連れて、どこからか風が吹いてくる。
頬を撫でるような緩やかな風。まるで六の君を慰めるかのような優しさで通り過ぎて行く。六の君は誘われるように、風の流れてくる方角へ歩んだ。
奥へ分け入るほどに、風は強さを増した。木々だけがざわざわと茂った梢を揺らす。夜空は幾重にも葉で覆われ、既に仰ぐことが出来なくなっていた。はじめは遠めに眺めることができた暗黒の柱の位置もつかめない。
何の根拠もないまま、六の君は風だけを頼りに進んだ。
ごうっと風が強くなる。長い緋色の髪を弄んで吹き抜けて行く。
ふと六の君は歩みを止めた。木々の隙間を縫うように奥へと連なっていた闇に違和感を覚える。距離感が奪われてしまったような光景。
まるで切り取られたかのように、唐突に森から外れてしまったような錯覚がした。背後に広がる光景とは、明らかに異質な空間だった。
荒野のように何もない。
ただ辺りの夜色とは比べものにならない暗黒がある。風はたしかにそこから舞い上がっていた。
六の君は距離を置いたまま、とてつもない巨木を見上げるようにその暗黒を仰いだ。
鬼の坩堝に辿りついたのだ。
不思議と恐れはなかった。
艶やかな闇は、切なくなるほど綺麗だった。闇呪の纏う美しさに通じるものがある。
――カナシイ。
ふと風に紛れるような声が聞こえた。
――カナシイ、カナシイ。
胸を掴まれるような衝撃でその思いが響く。まるで自分の思いを語られているようで、痛いくらいに沁みた。
六の君はゆっくりと美しい暗黒に歩み寄る。
――カナシイ、カナシイ。
「哀しい」
心が痛む。哀しみに染まる。
閉じ込めていた気持ちが、涙と共にどっと溢れ出た。
驚くほどの勢いで負が連鎖していく。抗いがたい絶望に心が侵される。肥大した暗い塊に呑まれて、もう闇しか見えない。
いつも手に入れることのできない居場所。自分自身に意味が見出せない。
だけど、そんなことを嘆く弱さも嫌だった。負けてしまうのが嫌で。
前を向いていたくてじっと堪えていた。
いつも、いつも、いつも。
――カナシイ。
喉が引きつるような烈しさで、嗚咽が漏れる。
心が折れる。
――ワタシハ、イラナイ。
絶望の烙印。
「わたし――」
呟いた声は、よく通る声にかき消された。
「いけないっ、姫君」
止めようのない哀しみで飽和していた心に、駆け抜けた声。
「姫君、こちらへ。私の手を――」
六の君は弾かれたように振り返った。闇だけを見つめていた心が、急激に現実に引き戻される。真っ暗な闇に染められた世界。いつの間に囚われたのか、じわじわと世界が閉ざされようとしている。
「姫君っ」
塞がれてゆく世界から、たしかに垣間見えた人影。
この地の主。
闇呪。
六の君は身動きのままならない暗黒の中で、閉じようとしている世界から懸命に手を伸ばした。
「姫君、私の手を――」
闇の向こう側に、たしかに差し出された手。
けれど。
届かない。
世界が閉じる。全てが終わる。
駄目だと覚悟した瞬間、絶望から連れ出すような力強さで腕を掴まれた。
六の君は引き寄せられるまま、そちらへと倒れこむ。
しっかりと自分を受け止めてくれる人影。呑みこまれようとしていた闇よりも艶やかな髪が、はらりと頬に落ちかかってきた。
「闇呪の、君――……」
どうしてと問う力が残されていなかった。力が入らない。
最後に見たのは彼の深い瞳。美しい双眸。
自分を抱く腕の力強さ。体温。
(――助けてくれた、わたしを……)
明けない夜にようやく薄明が訪れたのだろうか。あるいは最期に与えられた、都合の良い夢だろうか。
確かめることができないまま、六の君はコトリと意識を失った。




