五章:三 闇の地:わだかまり
胸にかかえたわだかまりが、鉛のように重さを増していく。夜が来て居室に横たわると、余計に気持ちが沈んでいく。闇呪の妃として迎えられながら、その立場に相応しくない自分が哀しくてたまらない。
闇呪と華艶。並び立つ二人の姿は美しすぎた。
あれから、まるで呪いをかけられた様に心が塞ぐ。
本当に自分がここに在ってもいいのかわからない。闇呪にとって自分は煩わしいだけの存在ではないのか。人知れず姿を消した方が良いのかもしれない。
そんなふうに考えはじめると、麟華や麒一の気遣いさえも苦しくなってしまう。ふいに逃げ出したくなるくらいの孤独に襲われて、自分でもどうすれば心が晴れるのかわからなかった。
緋国に在った頃のような、剥き出しの悪意はここにはない。苦痛に晒されているわけではないのに、心に傷痕にも似た染みが広がっていく。
六の君は袿を頭から被りなおして眠ろうと努力するが、目を閉じると余計に物思いが激しさを増した。
自分の内から芽生えた暗い思いに耐え切れず、六の君は身を起こす。
夜の暗さに触れると、まるで救われたように深呼吸できた。天帝の加護が費える夜の暗さは苦手であったのに、今は目を閉じて感じる苦痛の方が恐ろしい。
救いを求めるただれた心に、華艶の美しい声が蘇る。
この闇の地で、自分にも出来ることを示してくれた。
(「鬼の坩堝を理解する必要があるでしょう」)
華艶が語ったように、今更恐れることなど何もないのかもしれない。
運よく得ることがあればそれに越したことはない。
もし、万が一今までの姫君と同じような最期を迎えることになっても、闇呪にとっては痛くも痒くもないはずなのだ。煩わしい存在がなくなって幸いだろう。
絶望的な結末を思い描きながら、六の君はもう一度深呼吸をした。
天高く伸びる暗黒の柱。
鬼の坩堝。
恐れず向かい合うことが出来たなら、妃として闇呪に歩み寄る契機となるだろうか。
彼の妃として在るために努力が必要なら、六の君は何も惜しまない。それが恐ろしい鬼の坩堝に踏み込むことであったとしても、このまま暗澹とした日々を暮らすよりはずっと良い気がした。
六の君はゆっくりと立ち上がった。
この言いようのない憂鬱を断ち切る術を求めている。胸の内に出来上がった明けない夜。わずかな光でいいのだ。それが欲しい。
六の君は身支度を整えて、与えられた居室をあとにした。夜の暗さを恐れずひたひたと進む。
まるで何かに憑かれたように、破滅を厭わない覚悟で心が薄明を欲している。
灯台の小さな火が、文机に広げられた書を照らしている。視線の先で書の文字を追いながらも、闇呪は一つの気掛かりに囚われていた。
華艶と六の君。最も避けたかった対面が果たされてしまった。
例えそれが悪意の含まれていない行いであったとしても、闇呪は迂闊だったのだと悔いていた。全ては守護である黒麒麟の不在が招いた結果だろう。黒麒麟には定期的に天落の地や地界の様子を探るよう命じている。
六の君を迎えてからも、その習慣は覆さなかった。それが間違いであったのかもしれない。せめてどちらか片割れだけでも六の君の傍につけておくべきだったのだ。
これ以上、姫君の魂魄を奪われるようなことがあってはならない。緋国の女王との約束だけではなく、原因が明らかとなった今、同じ成り行きを辿るわけにはいかないのだ。
華艶の本性を知ってからも、闇呪は知らぬふりを貫いていた。これまでと変わりなく接するように努めている。
華艶の思惑がどこにあるのかは、依然としてわからない。
妃として迎えた姫君が自分に、あるいは自分が姫君に興味を抱くことが、華艶の悪意を刺激する。それが悪意を放たれる確かな要素であるのかは定かではない。
ただこれまでの成り行きから導かれた、一つの可能性だった。
闇呪には、できるだけ妃と関わらずに過ごし、妃を華艶から遠ざけることしかできない。
けれど、二人は対面を果たした。
それが何を意味するのか。何の意味も思惑もない戯れであるのか、明確な悪意が働いていたのか。
幸いあれから六の君に変化はなく、二人が顔を合わせるような事態も起きていない。
六の君に厳しく禁じたことは、華艶にとっても同じ意味をもつ。二人が容易く出会わぬように、牽制になった筈だった。
全く頭に入ってこない書を視界から遠ざけ、闇呪は吐息をついた。ふと全てが取り越し苦労なのではないかという気がしてくる。
六の君が華艶の恨みや憎しみを買うとは思えない。二人の間には、感情的な軋轢が生まれるほどの疎通がない。
ないのだが――。
「――っ」
はっと思考が中断された。闇呪のわずかな身じろぎを示すように、灯台の小さな火がゆらりと震える。
何かが感覚に触れた。敷地に張り巡らしたものに反応があったのだ。
(――まさか……)
闇呪は自身の寝殿から、夜の濃紺に沈む奥の対に視線を走らせる。ひっそりと動きのない様子だが、夜色に侵された世界では全てが不確かだった。
すぐに居室を出て反応のあった門へと向かう。
覚えのある胸騒ぎと共に、亡き桔梗のことを思い出す。華艶を慕い頼った挙句、鬼の坩堝に至るまでの森で魂魄を失った。
華艶は再び、緋国の姫君を標的としたのだろうか。けれど、ほとんど接点を持たない六の君を容易に連れ出せるわけがない。
やはり、ただ一度の対面が魂魄取りだったのだろうか。あの出会いで既に何かが仕掛けられていたのかもしれない。
ようやくたどり着いた門に人影はなかった。夜の色彩と静寂があるだけである。
闇呪は迷わず走り出した。何もないと楽観する気にはどうしてもなれない。
自分と関わった者が魂魄を失うような事態は、二度と繰り返したくないのだ。
何としても避けたかった。
目の前で何かを失うたびに、自身の存在がこの世に否定されていることを思い知る。
この世の凶兆。全てを破滅させる者。決して祝福されない立場。
目を逸らしていたい真実が嫌というほど突きつけられる瞬間。
(姫君……)
闇呪は暗い森を駆ける。人が立ち入ることを禁じた鬼の坩堝を目指していた。
悠闇剣を標として、わだかまる悪意を昇華させている地。
鬼は負の感情に同調する。鬼の坩堝に心が呑みこまれたら、ひとたまりもない。ひとたび同調すれば魂魄が尽きるまで負の連鎖を繰り返すだろう。
もし六の君がこの禁忌の地に踏み入ったのなら。
(どうか――恐れるな、恐れてはいけない)
闇呪は祈るように繰り返す。
鬼は負の心を映す鏡のようなもの。
「麒一、麟華」
坩堝を目前に、闇呪は地界に放っていた黒麒麟を呼び寄せた。即座に現れた守護に状況を伝える。自身を守るための悠闇剣は、坩堝の標として手放している。虚空を通じて掴み取ることは出来るが、鬼の坩堝の標である限り、唐突に手繰り寄せて抜くことはできない。
もし悪意や負に侵された鬼と対峙したとき、闇呪には戦う術がないのも同然だった。
最悪の事態に対して確かな策を見つけられぬまま、闇呪は視界に小さな姿を見つけた。
鬼の坩堝に寄りそう人影。
最悪の事態が目の前で形になっている。
辺りに充満している絶望。闇に囚われようとしている姿。
「いけないっ、姫君」
闇呪は考えるよりも先に、叫びながら手を伸ばした。
手が届くのか、間に合うのかどうか、わからない。




