五章:一 闇の地:緋国の姫君
六の君はひたひたと広廂まで歩み出て、ぺたりとその場に座り込んだ。軒廊が回廊のように内庭を囲んでいる。風回りがよく、居室にあっても心地がよい。内庭は花の盛りなのか、名も知らない木々が花を咲かせていた。ふわりとあるかなしかの香りが漂ってくる。
自分を迎えるために、万全の仕度が成された殿舎であることは疑いようもない。
闇呪の住まう中央の寝殿から、真っ直ぐに軒廊で結ばれた奥の対屋。
妃として受ける当然の待遇なのかもしれないが、六の君はもったいないような気がしてしまう。
何もかもが想像よりも穏やかで、明るい。幸せを形にしたらこんな世界になるのではないかと思えるほどだった。
闇呪と縁を結ぶため、闇の地を訪れてから既に一月以上が経っている。
あてにならない噂に振り回され恐れていた自分が、今となっては恥ずかしい。
「姫君」
のんびりとした居室に、すっかり打ち解けた笑顔で麟華がやってくる。六の君が寂しくならないように、全てが配慮されていた。申し訳なく思うが、麟華や麒一と過ごす日々は、素直に楽しい。六の君はぱっと笑顔を返す。
「麟華、そのお花は?」
現れた麟華は腕いっぱいに花を抱えていた。内庭では見られないような色鮮やかなものも混ざっている。
「花吹雪はいかが?」
「え?」
六の君が立ち上がろうとすると、麟華は腕を広げて辺りに花をふりまいた。はらはらと花が舞い落ちて、広廂を埋めつくす。爽やかな花の香りが辺りに満ちた。
「すごい、とても綺麗です。良い香り」
麟華は折に触れて、どこからか珍しいものを手に入れてやってくる。六の君は麟華の振りまいた花を手にとってじっと眺めた。
「私、こんな綺麗な花は見たことがありません」
自然に顔が綻ぶと、麟華は腕を組んでうんうんと満足そうに頷いた。
「姫君は絶対に気に入ってくれると思ったの。それはね、とっておきの場所にだけ咲く珍しいものなのよ。姫君に見せてあげたいとずっと機会を狙っていたのよね。手に入って良かったわ」
「私のためにわざわざ?麟華、ありがとうございます。とっても綺麗」
「姫君が喜んでくれると、私も嬉しいわ」
お互いににこにこと笑顔で向き合っていると、ふと内庭で気配を感じた。六の君が振り返る前に聞きなれた声がする。
「姫君を飾りたい気持ちは分かるけれど、相変わらず行儀の良い行いではないね、麟華は」
やれやれと云う顔をして、麒一が内庭を歩いてくる。広欄に手をかけると花に囲まれた六の君を見て微笑んだ。
麒一は片腕に抱えていた小さな籠を差し出す。これまた見た事のないような美しい果実が並んでいた。
「私からは旬の果実をおくりましょう」
「わぁ、ありがとうございます」
六の君は果実の一つを手にとって、何のためらいもなく口に入れた。麒一も麟華も礼儀作法よりは、六の君の素直な行いを喜んでくれる。
果実は口の中で弾けて、ふわりと瑞々しい甘さをもたらした。至極の味といっても良いかもしれない。
「美味しい」
思わず声を上げると、麒一の微笑みがさらにくっきりとした笑顔に変化した。
二人とも黒麒麟として恐れられている霊獣ではあるが、六の君にとっては既にかけがえのない存在になっている。
麒一が広廂に上がってくると、六の君はふと気になって彼を仰いだ。
「麒一さん。闇呪の君には差しあげないのですか。きっと喜ばれると思います」
「我が君は、姫君のそのお心だけで充分でしょう」
優しい答えだったが、六の君はつまらないことを云ってしまったのだと悔いた。妃であると云えども、闇呪と言葉を交わしたのは一度だけである。闇呪は自分との縁については全く興味がないのだ。
六の君が快適に過ごせる配慮は感じられるが、特別な想いは何も見えない。
当然だろうと思う。自分は緋国に疎まれた存在なのだ。特別に美しいわけでもなく、何の取り柄もない。
恋人がいるということもはっきりと云われた。六の君はちらと垣間見た、その美しい人の姿を思い出した。闇呪の寝殿へと続く軒廊を渡る姿。
たおやかな足取り。絶世の美女と謳われるに相応しい女人。
――華艶の美女。
教えられなくとも、その圧倒的な美貌が存在感を訴える。一目見れば、これまでに聞き及んだことから容易にたどり着くことのできる正体。
珍しい花や果実を送ってくれる麟華と麒一の気遣いが、六の君の心の裏をちくりと刺した。今日も華艶が訪れているのだろう。
二人は妃である自分を慮ってくれているのかもしれない。
闇呪の美しい恋人。たしかに相応しい。彼の隣に立っても、華艶なら見劣りはしない。自分が叶うはずのない相手だ。
六の君は花に囲まれたまま、もう一口果実を含んだ。
甘い。傍らには、自分を受け入れてくれる麒一と麟華もいる。
緋国にあった頃よりも、何もかもが遙かに満たされて、幸せな日々を送っている。
なのに、どうして寂しいと感じてしまうのだろう。
今なら暁の言葉が分かるような気がする。
自分の居場所を感じるのは、誰でもない自分自身なのだと。
自分の心の中に在るのだと。
こんなに満たされているのに、ちくりと痛む心の裏側。
なぜ痛むのか分からない。何が寂しいのかも、わからないのだ。
いったいこの幸せな日々の中で、自分は何を求めているのだろう。
これ以上、何を欲しがっているのだろう。
わからない。
答えを見つけられぬまま、六の君はゆっくりと果実の甘みを呑みこんだ。




