三章:五 闇の地:後悔
桔梗の亡骸は、すぐに故郷である滄国へ還された。
黒き躯。何の罪もない姫君の亡骸は、業火の儀式で真の最期を迎えるという。
后を襲う不慮の死。
それに伴うあまりの事実に、闇呪は正気を取り戻すのに数日を要した。眩暈と吐き気が止まない。あれからどうやって屋敷まで戻ったのかもよく覚えていなかった。腕に抱えた桔梗の躯だけが脳裏に蘇る。
耐えられない。
後悔と懺悔と苦痛。心が著しく消耗を強いられた。
自失していた心が少しづつ何かを取り戻し始めた頃、闇呪は桔梗が業火の儀式を終えたことを守護から訊かされた。
「業火の儀式……」
最悪の終焉だった。それだけを呟いて、闇呪はようやく水を口に含んだ。傍らに控えていた麟華と麒一がほっと息をついたのが分かった。
闇呪は久しぶりに格子の合間から中庭に目を向けた。天帝の加護が費えつつあると云われていても、やはり明るい。寝殿から臨める中庭は変わることなく、深緑で彩られている。
自分を照らそうとする不似合いな光に、痛みを感じる。
「桔梗の君がお亡くなりになったことで、主上がそれほど落胆されるとは思っておりませんでした」
労わるように麟華が眼差しを向けてくる。混じりけのない墨色の瞳。闇呪は心の内を見透かされているようで、視線を逸らした。守護には一連の事実を何も語っていない。
語りたくないのだという思いがあった。ひどく後ろめたい感情の底で、湧水のように滲み出す思い。
本当は桔梗が惨い最期を迎えたことよりも、后を失ったことよりも、華艶の本性に触れたことが苦しかった。自分を見失いそうになるくらい、衝撃を受けている。
砕かれた理想。
砕け散ってから気がついたのだ。まぎれもなく華艶を愛していたこと。ただ慕うだけの美しいひとときがあった。砕かれた面影の片鱗に、隠しようもなく想いが焼け付いている。
愛していた。けれど、愛されることを望まなかった。どうしてなのか分からない。手を伸ばすことが出来ず、諦めていたのかもしれない。どこかに朔夜を裏切るような想いがあった。自覚することもなく、華艶への想いはいつしか費えていたのだ。
理想として形作ることで、ようやく華艶の存在を受け入れることが出来た。
けれど、全てが間違えていたのだろうか。
自分がもっと違う方法で華艶を想っていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。
いつも黄帝の命を受けて后を齎すのは華艶だった。その時に理解したつもりだったのだ。華艶の心は決して男女の情愛に縛られることはないのだと。
今でもそれが過っていたとは思えない。華艶が嫉妬で狂うことなど有り得ないのだ。
有り得ない。
ならばなぜ、彼女は魂魄が尽きるほどの絶望を桔梗に与えたのか。垣間見えたのは、真名を与えられない先守という立場を怨む思い。孤独に裏打ちされた独占欲。嫉妬でなければ、自分に執着している理由が明らかにならない。
それでも違うのだと訴える何かがある。わからない。
闇呪は考えを脳裏から追いやるように、大きく息を吐き出した。呼吸が重い。
「我が君、何かあったのですか」
穏やかな麒一の声にも、自分を案じる響きがあった。闇呪は華艶についてそれ以上考えることを放棄した。どれほど考えても判らないだろう。心の底に秘められた屈託や軋轢は判らないのだ。触れないほうがいいのだと、全てを封じ込める決意をした。
水を口に含み、無理矢理思考を切り替える。
「桔梗の君が業火の儀式とは、やりきれない」
何気なく思いを口にしただけだったが、すぐに強い罪悪感が込み上げてくる。闇呪はやりすごすように固く目を閉じた。
ふいに込み上げた思い。やりきれない後悔。
自失している場合ではなかったのだ。桔梗のために自分には何かできることがあった筈だった。
最期をこの目で見ていた。黒き躯の死因は、既に明らかなのだ。
あれは魂禍と成り果てた証。
鬼に侵された魂魄と亡骸。この身に与えられた呪鬼を以って、せめて黒き骸を救うことが出来たのかもしれない。最悪の終焉である業火の儀式を避けることは出来たのではなかったのか。
(「――あの方の翼扶となるには、私には足りないものがあるのだと、今はそう感じています」)
桔梗の姫君。真摯な声で、たしかにそう語ってくれた。
締め付けられるような痛みに苛まれる。誰かを愛するということを考えることなどしなかった。翼扶を得る資格など、もとから与えられていないのだと思っていた。
浅はかだったのだ。
向き合うことが出来ないのなら、中途半端に心を砕くべきではなかった。愛することができないのなら、初めから関わらないほうが良いのだ。そうすれば后達は華艶の毒牙にかかることもなかったのだろう
魂魄を奪われてしまったら、どうにもならない。
笑うことも、恐れることすら出来なくなるのだ。
「私は、身勝手で、……愚かだ」
やむことのない後悔と懺悔。
心の底に刻まれた痣から、じわりと形作られる絶望。
(――ここに在ることが、苦しい)
繰り返し滲み出す思い。やはり禍でしかいられない。許されない。
強大な力を与えられていても、非力だった。活かすことなどできない。
脆弱なのだ。
この手で出来ることなどありはしないのだと思い知らされる。どれほど朔夜の残した思いに答えようとしてもがいても、全てが費えていく。
「どうして、ここに在るのだろう」
桔梗の亡骸を救うことさえ、出来ない。
「主上」
「我が君」
叱咤するように、守護が小さく呼びかけてくれる。今はそれすらも、痛々しく心に響いた。




