三章:四 闇の地:黒き躯
天高く立ち昇る鬼柱の周辺。何もない荒野でしかなかったその場所は、今では見違えるほど木々が密生している。森と呼ぶに相応しい光景だった。好んで鬼柱に近づく者が在るとは思えないが、たやすく人が近づけないようにするという配慮から、闇呪が守護に命じた開拓のようなものだった。
朔夜の墓標としても、荒野よりは相応しい気がしていた。
闇呪は二人を追って、いつのまにか鬼柱の周囲に作られた森に踏み入っていた。こんな処に何の用向きがあるのかと思いながらも、最悪の予感がとめようもなく胸を占めていく。
これまで迎えた皇女や姫が変わり果てた姿で見つかったのも、この森なのだ。
頭上を仰ぐと梢の合間から、夜の暗さにも馴染まない巨大な黒柱が天へと立ち昇っているのが見える。
鬼柱が近い。
「……このような処でなくとも。華艶様は恐ろしくはないのですか」
すでに訊き慣れた桔梗の声が、木々の合間を縫ってかすかに届いた。闇呪は辛うじて二人の影が見える処で立ち止まる。繁る木々に隠れ、巨木の幹に身体を預けてかすかな声に耳を澄ませた。
「桔梗の姫君、此処を恐れているようでは、あの方のお心を得ることは難しいでしょう」
遠くても謳うように甘い華艶の声だった。変わらぬ優しげな声を聞いて、闇呪は幾分張り詰めていたものを緩めた。形にならない懸念は、ただの思い過ごしなのかもしれない。
「私も理解はしているのです。此処は決して恐れるような処ではないのだと」
言い訳するように桔梗が言葉を返す。彼女達の語る此処がどこなのか、桔梗の言葉でつかめなくなった。この森も鬼柱も恐れることを恥じるような場所ではない。
「頭では判っているのですが……」
かすかな桔梗の声。危機感を匂わせるような響きはなかった。
闇呪はさらに緊張を緩める。桔梗は何か人知れぬ相談をもちかえているのかもしれない。先守の華艶に対して、充分考えられることだった。
「あの方のためにそれが必要なら、私はこの恐れを必ず克服いたします。華艶様、私はどのように振る舞えばよろしいのですか」
桔梗には想う者がいるのだろう。どうやら華艶に占い――助言を求めたようだった。闇呪は二人の会話を訊いていることがやましいことのように思えた。
「――噂とは、あてにならぬものですね」
華艶の声。闇呪は取り越し苦労だったのだと、その場を離れるために身を翻した。華艶の立場ならば桔梗の想いが通じるように取り計らうこともできるだろう。自分も知ってしまった以上、桔梗のために何か力になれることがあるなら惜しまない。
「私も本当にそう思います。まさかあの方のお心を求める日が来るとは思いませんでした」
華艶の笑う声が聞こえる。
「闇呪の君は優しい殿方です。そう、慈悲深いと云っても良いほどに」
踏み出していた足先が、ふいに語られた自分の愛称に反応する。闇呪は思わず振りかえった。
「はい。まるで悪鬼のように語られていた闇呪の君が、あれほど優しいお方だとは夢にも思っておりませんでした。今では、私は此処で幸せになれるのではないかと思っています」
かすかな声にも、はにかんだような響きが含まれているのが分かる。桔梗が語ったこと。はっきりと示されても、闇呪はすぐに意味を咀嚼できない。違う誰かのことを語っているのだという感覚に支配されたままだった。
また華艶の笑う声がした。
「闇呪の君と共に在りたい。幸せになりたいと、そう願うのですか」
優しげな声。けれど闇呪ははっと我に返る。先守の華艶には視えるだろう。禍の后。どんなに望んでも、共に歩む未来に幸せなどないのだ。桔梗の語ることは虚しい夢に過ぎない。闇呪は華艶がそんな未来を見据えて、どのように占いを告げるのか気になった。遠まわしに助言をするのか、心を修羅にして真実を語るのか。
華艶は黙したまま桔梗を見つめているようだった。さらに桔梗の声が梢を震わせる。
「噂に縛られ、私は闇呪の君を恐れることしか知りませんでした。あの方が私に心を砕いてくださっていることを理解するのに、とても時間がかかってしまいました。ですが、ようやく向かい合うと、そこから見えてくることがあります。あの方は決して私に心を寄せては下さらない。それが分かるのです。きっと私が愛を以って真実の名を語っても、あの方は困る気がします。あの方の翼扶となるには、私には足りないものがあるのだと、今はそう感じています」
真摯な声が打ち明ける。
どこかで大きな何かが揺らぐ。闇呪は自分の手が震えていることに気がついた。胸を突き抜けていった塊が熱を帯びている。
(「――むしろ本当に向き合おうとされなかったのは、我が君です」)
静かな口調に込められた激しい非難。麒一の言葉が刺さる。
比翼と翼扶。
そんなことを考えたことがなかった。望むことなど許されないと思っていたのだ。
あるいは、恐ろしかったのかもしれない。
禍として在る自分。その宿命に巻き込んで失うことが耐えられない。
心を寄せて、許して、望むほど。いつか断たれることが恐ろしくなる。
だから、朔夜を失ったあの日に心を殺してしまったのかもしれない。
禍。そこから派生する閉ざされた未来を言い訳にして、目を逸らしていた。
「華艶様」
桔梗が先守を呼ぶ。どうすればいいのかと縋っているのがわかる。華艶は答える前に笑ったようだった。激しい自己嫌悪に苛まれながら、闇呪は先守である華艶の声を訊いた。
「では、はっきりと申し上げよう。そなたが彼の心を手に入れることはできぬ」
同じ甘く柔らかな声。けれど別人のような烈しさを込めて華艶が告げた。
はっきりと桔梗の希望が砕けたのが分かった。身動きもできず、ただ華艶の前で立ち尽くしている人影。何を云われたか理解できていないのかもしれない。
闇呪は再び胸を占めていく深い影を感じた。
華艶の美しい声が、不似合いな言葉を吐く。
「桔梗よ。そなた如きが、彼の翼扶を望むというのか。妾の果たせぬ宿業を」
「私は、――ただ……」
「それが何を意味するかも知らずに」
それが意味すること。
禍の翼扶。いずれ破滅するだけの后。そんな立場の上に幸せを描くことは、愚かなのだと。華艶の示唆することは正しいのだろう。
けれど、闇呪はもういいと叫びそうになるのを堪えた。
桔梗も、もう全てを理解しただろう。さらに追い詰めることはない。
そして。これ以上華艶の恐ろしい言葉を聞きたくはなかった。
「よく訊くが良い。妾は先守、決して偽りは申さぬ。――桔梗、そなたは幸せになどなれぬ。今ここで絶望に喰らい尽くされ、醜い亡骸を残すだけ。それこそが、そなたの真実となる」
「そんな――」
桔梗がみるみる抗えぬ絶望に苛まれるのが、まるで目に見えるようだった。
突如生まれた負に吸い寄せられた鬼が、恐ろしい勢いで桔梗の魂魄を侵していく。
ああ、とうな垂れたまま、桔梗は成す術もなく闇に囚われた。
「――――――……っ」
耳を塞ぎたくなるような断末魔の叫び。ぞっと森が震えた。
まるで巨木に磔にされたように、闇呪は身動きも出来なかった。桔梗の細い悲鳴が、残響となって梢を揺るがしている。
最期。
直後、どさりと何かが倒れる鈍い音がした。
華艶は動じることもなく、動かぬ人影――躯を眺めていた。
「そなたになど与えぬ。――誰にも。すべて妾のもの。この身が真実の名を持たぬことが、口惜しい」
美しい声が呪いを語るように胸の内を吐き捨てる。闇呪は足元から何かが崩れて行くのを自覚した。
誰よりも美しく優しかった面影が壊れる。
砕け散った理想。
華艶は足元に横たわる屍――黒い躯に一瞥を向けるとしなやかな足取りでその場を立ち去った。闇呪は鬼柱を囲む森で、后の最期を看取ったのだ。
壮絶な真実に裏打ちされた最期。
闇呪は震える自身の体を、両手を回して肩から押さえた。震えが止まらない。
(――華艶、なぜ)
わからない。ただ残された事実だけが、目の前に置き去りになっている。
(これが、真相)
后が不慮の死を迎えた理由。
華艶の内に秘められた壮絶な独占欲。后達はその餌食となって倒れたのだ。
先守の占いは絶対。だからこそ語られた絶望は、抗えない呪いとなって魂魄を喰らい尽くす。絶望に蝕まれた真名は魂禍となり、黒き躯を残す。
(――占い、と云うよりは……)
あれは、呪いに等しい。
最高位の先守だからこそ成しえる、恐ろしい呪い。
眩暈がした。闇呪はその場で崩れるように膝をついた。




