二章:一 緋国:暁(あかつき)
渡殿を進んでいると、ふいに小さな声が聞こえた。この寝殿の世話を仕切っている女――暁はぴたりと歩みを止める。息を潜めて耳を凝らすと、南対屋から、確かにすすり泣く声が聞こえた。
(きっとまた、酷い仕打ちをお受けになったのだろう)
暁は知らずに眉を潜めたが、すぐに同情を殺すように無表情な仮面を被りなおした。この緋国の宮家に在って、あの小さな姫宮を肯定的に受け入れられる者などいない。皮肉なほど完璧に、幼い姫宮を憎む舞台が整っているのだ。
もちろん自分も例外であってはいけない。どんな真実に裏打ちされた状況であっても、決して優しくしてはならない。
事実はどこから漏れ出すか判らないのだから。
暁はぐっと心を引き締めて、泣き声のする対へと向かった。
簀子縁を回って居室へ入ると、まるで几帳にしがみつくようにして背を向け、姫宮がしくしくと声を殺して泣いていた。それでも嗚咽を堪えきれず、幼い泣き声が居室を震わせる。
哀しみに耐える小さな姿を、暁はもう幾度目にしたのか数え切れない。被りなおした冷徹な仮面が剥がれ落ちそうになる刹那、いつもごまかす様に厳しい声を出した。
「六の君殿、このような処で何をしておいでです」
抑揚を欠いた鋭い声音に反応して、緋国の六の宮である童女がびくりと肩を上下させる。宮家に生まれながらも、与えられた愛称は――六の君。
ただ六番目に生まれた娘というだけの、祝福にはほど遠い呼び名。
どんな仕打ちを語るよりも、それが如実に彼女の境遇を物語っていた。 誇り高い宮家にあって、先代の犯した過ちはどれほどの遺恨となって語り継がれていくのだろう。およそ真実とはかけ離れた醜聞。 先代、紅の宮が犯した比翼への裏切り。姦通の果てに残された最悪の申し子、それが六の君であるのだと。
「も、申し訳ございません」
六の君が泣き顔を隠すように、その場に平伏して小さくなる。暁は胸が痛くなるのをやり過ごして、その小さな姫宮の前へ歩み寄り膝をついた。
「お顔を上げて下さい。あなたはこの宮家の姫君なのです。もっと毅然と――」
暁は言葉を詰まらせてしまう。こちらの機嫌をうかがうように、おそるおそる上げられた幼い顔を見た瞬間、非情を宿らせた仮面が砕けるほどの衝撃があった。
「そ、そのお顔はどうされたのです」
六の君の顔が額から流れ出る血に染まっていた。暁は大声で誰かを呼ぼうと思ったが、辛うじて立場を思い出し、言葉を呑み込んだ。
かわりに痛みを堪えているのだろう姫宮に、感情を殺した声で告げた。
「六の君殿、すぐにお怪我の手当てを致します。こちらからお動きにならぬように」
暁はやりきれない思いで幼い姫宮から踵を返し、他の者の目を忍ぶように手当てに必要な物を揃えた。
(……なんという、ひどい仕打ちを)
胸の底から焦げつくような痛みを感じる。それでも幼い姫宮が受けた痛みには及びもしないのだ。暁は怒りと哀しみが綯い交ぜになった思いで、早足に廊を進む。
暁は先代――紅の宮のもっとも近くに仕える女房だった。紅の宮と一の宮であった緋桜が、宮家の悲劇を回避するために描き出した筋道を誰よりも理解している。 作られた紅の宮の醜聞。秘められ、伏せられた――緋桜の懐妊。暁はそのために仕掛けた壮絶な芝居が暴かれぬように、中宮と一の宮を近くで支えてきた。 先代、紅の宮は天界を去る間際、暁に今後のことを託して人知れず地界へと姿を消した。暁はそんな先代と赤の宮となった緋桜の思いを組んで、六の宮として迎えなければならなかった姫宮に仕えることを自ら申し出たのだ。
(――中宮様)
六の君となった姫宮がひどい仕打ちを受けるたびに、暁は天界から消息を絶った紅の宮に縋りたくなる。 本来、女王となった緋桜の娘として、一の宮となる筈であった六の君。
その小さな体と幼い心に、云われのない糾弾を一身に浴びているのだ。
それが六の君を緋国の確執から守る手段であったとしても、やはりやりきれない。暁も仕えるにあたって相応の覚悟を決めていたが、六の君を巡る非難も、そして嫌がらせも、全てが想像以上に酷かった。
(緋桜様――、いいえ、赤の宮様もどんな思いで見守っておられるのか)
自身の愛娘でありながら、中宮となった緋桜――赤の宮は厳しい態度を貫いている。決して六の君の出自が知れるようなことが在ってはならないと、強い決意で臨んでいるに違いない。赤の宮の血の滲むような心中を慮ると、暁も決して上辺の情に流されて、六の君に優しく接するわけにはいかないと気持ちを改める。
特に緋国の女王である紅の宮に仕えていた自分は、他の者よりも六の君に対して屈託があって当然なのだ。女王を失脚させた証を憎まずにいられる筈がない。あるいは女王に裏切られた恨みのやり場を、歪んだ形で残された姫宮にぶつけてしまうというのが、周りの者にとっても、自然な振る舞いに映るだろう。
暁が六の君に優しくする、優しくできるような要因は立場的に見つけられない。
ありえないのだ。
暁は焼き切れそうな思いをごまかすように、再び無表情な仮面を被る。南対に戻ると、几帳に隠れるようにして座している姫宮に近づいた。
「六の君殿、こちらを向いてください」
感情のこもらない声をかけると、彼女はゆっくりと暁を仰いだ。着物を汚したことを責められると思っているのか、ひどく怯えている。
暁は何があったのか問うこともせず、素早く額の傷を手当し、無言のまま衣装の召し替えを手伝った。
「――あの……」
衣装が整う間際に、六の君が小さな声を出した。暁は袿の前に手を加えながら、何気なく彼女の顔を見上げた。視線が合うとわずかにためらいを見せたが、六の君は鮮やかな朱の瞳に訴えかけるような力を込めて口を開いた。
「私が宮家にいる為には、何をすればよろしいでしょうか」
暁には咄嗟に言葉の意味が把握できない。ただ眉を潜めると、六の君は慌てたように続けた。
「あ、あの、皆が私はここに相応しくないと、ここにいてはいけないと……、そう云うので。その、ここにいられるようにするには、どうすればいいのかと、そう思って」
「―――……」
暁は言葉が出てこなかった。彼女を憎んでいるふりをしているからではなく、これほど酷い仕打ちを受けても、宮家に居場所を求めようとする健気さが痛かった。どこにも縋ることのできない非力な立場。それが哀れでならない。
「六の君殿がなさることなど、何もありません」
突き放すような冷たい言葉に、六の君は目に見えて沈んだ。暁は眩暈を覚える。
胸の内で知らずに中宮様と呟き、縋っている自分があった。こんなとき紅の宮であれば、何と答えるのだろうか。背徳と使命が入り混じって、暁には見えるものも見えなくなっていた。
「だけど――、私は、ここにいてもいいのでしょうか」
打ち沈んだ声が、何かを諦めたように震えていた。泣きたいのを堪えているのだ。
何かが間違えている。




