第4章:2 女子生徒2
やがて身近に迫っていた気配がスッと遠ざかる。朱里が顔を上げると、彼は理科室の前まで進んでゆっくりと扉に手をかけた。
「手伝えと言ったのは建前だ。君を困らせるつもりはない」
柔らかな前髪が、再び彼の素顔を隠している。自嘲するような低い呟きが、朱里の胸を打つ。言い過ぎたかもしれないという罪悪感よりも、強く感じた思い。
どこかで激しく警鐘が鳴っているのがわかる。
これまでの平穏な日々が、音もなく崩れて行く気がした。
危機感と、不安と恐れが高まってゆくのを感じる。感じるのに、朱里は彼を突き放すことが出来なかった。ここで彼を遠ざけてしまえば、後悔するのは自分なのだと思えた。
突如、込み上げてきた想い。その気持ちをどんなふうに言葉にするのかは、知らない。
「だから、そういうのが理解できないんです」
もどかしさを訴えると、遥は再び朱里を見返る。
「先生は、私の望みを護ると言う。私の望みって、いったい何ですか。そんなふうに、生徒をからかって楽しいですか。いい加減にしてくださ――」
朱里はハッと息を呑んだ。思わず瞬きをしてしまう。
誰かが立っている。
遥の立つ理科室よりも、更に奥に続く廊下。
朱里はぞっと背筋に冷ややかなものが伝うのを感じた。
ひっそりと立ち尽くしているのは、学院の制服を着た女子生徒だった。さっきまで確かに人影はなかった。向こう側は行き止まりで、どこかへ通じる路もない。いつ現れたのか、こちらを向いてぽつんと佇んでいる。
「……ケテ」
朱里は言葉を失ったまま、かすかな声を聞いた。薄暗い廊下に浮かび上がるように、顔は白く、赤い口元だけが不自然なくらいに鮮烈に映った。
現れた女子生徒を取り囲むように、黒い陽炎が蠢いている。見ているだけで、禍々しさに押しつぶされそうな圧迫感があった。
「ついに形になったか」
遥は驚いた様子もなく、現れた女子生徒を眺めている。
「どこで与えられた?」
「――タスケテ」
かぼそい声が聞こえる。遥は辺りに満ちている禍々しさを物ともせず、ゆっくりと彼女に歩み寄る。
本来ならば、副担任の正体がばれてしまうと焦らなければならない場面であるのに、朱里にはそんな余裕がない。
女子生徒と教師が向かい合っているだけなのに、それは異常な光景だった。この世の物とは思えない、異質な何かと対峙している錯覚に陥る。
「黒沢先生」
女子生徒に近づく彼を案じて、朱里は思わず声をかけてしまう。自分も駆け寄ろうか迷っていると、遥はこちらに背を向けたまま警告する。
「朱里。君はこちらに来るなよ」
「だけど」
「心配はいらない」
遥は全く動じていない。朱里はとりあえず彼の言葉に従うことにした。
「タスケテ、……タス、テ」
「悪いが見逃すわけには行かない。どこで形を手に入れた?」
「――ケテ」
壊れたラジカセのように、少女は繰り返すだけだった。制服の袖から覗く白い手が、しなやかに動いて遥に触れる。首筋を辿り、女子生徒は彼を引き寄せるように腕を回した。まるで誘惑するような艶かしい動きに、朱里は知らずに唇を噛んでいた。
「答える術は与えられていないか」
遥のよく通る声が聞こえる。少女は彼に身を寄せたまま、変わらず「タスケテ」と繰り返していた。
「私はアンジュの主。こちらへ流れたキを見逃すことは出来ない。そのまま在れば、このような目に合わずにすんだものを」
ゆっくりと遥が右腕を持ち上げた。緩やかな動きは、舞うように優雅だった。
真っ直ぐに伸ばした手の先で、彼の指先が何かに触れたように見えた。
「――ジュを以て葬る」
次の瞬間、遥の右手が虚空から長い影を引き抜いた。それが漆黒の刀身であることを理解した瞬間、朱里は駆け出していた。
「待って、先生」
叫びながら、朱里は夢中で遥の右腕にしがみつく。
「何をする気ですか?そんなもの振り下ろしたら、死んじゃう」
どこからそんな刀を取り出したのか、聞きたいことは山のようにあったが今はそれ処ではない。朱里にとっては、副担任の凶行を阻止することが先決だった。
「――っ朱里。何をやっているんだ、君は」
「だって、先生が……」
言葉は続かなかった。遥の腕にしがみついたまま、朱里は間近に迫った女子生徒の顔を見た。短い悲鳴がひきつる。真っ赤な唇は、割かれた傷跡のようにぱっくりと口を開けている。歯は無理矢理埋め込まれたように、不自然に並んでいた。
真円に開かれた目の中は空洞で、闇が淀んでいる。
明らかに、人ではない者。
(――鬼)
朱里の脳裏に、強烈な恐れがよぎる。
「タスケテ」
引きつる傷跡を動かすようにして、女子生徒は呟く。口元は更に裂けて、めりめりと嫌な音を響かせた。ぱっくりと開いた口が、朱里に食らいつくように迫って来る。
咄嗟に目を閉じると同時に、朱里は強い力で引き寄せられた。遥が素早く動いたのがわかる。強引に抱え上げられて、朱里は振り下ろされないように思わず彼の胸にしがみついた。
彼の左手に持ち替えられた黒い刀身が、流れるように動く。
瞬きをする間もなく、影色の刃が少女の体を刺し貫く。止めることができないまま、朱里は女子生徒の最期を見た。
あまりの光景に、悲鳴すら声にならない。
「――どうか、安らかに」
哀悼するように、遥が小さく告げた。
ためらいのない仕草で、当たり前の儀式のように、彼は少女を貫いた刀身をゆっくりと引き抜いた。
反動のまま、少女の体が傾く。崩れ落ちる前に、その姿は端から毛糸がほどけるようにするすると輪郭を失った。まるで天を目指すように漆黒の筋となり、真っ直ぐに天井を突き抜けて、音もなく消えた。




