一章:三 闇の地:絶望 2
――カナシイ。
悲痛な怨嗟が止まない。彼は朔夜が望むとおり、悲嘆に震える手を蠢く影に伸ばした。
恐ろしくはない。うな垂れたように打ちひしがれた鬼に自分が重なる。嘆くなと呟いていた。まるで泣くなと言いきかせるのに等しい仕草で。
迫り来る絶望に耐える己を慰めるかのように。
差し伸べた手が、そっと闇に届いた。
「――あ」
するりと糸が解けるように、目の前の闇――鬼が天へと舞い上がって消えた。ふわりと掌に熱が残っている。痛みとは無縁の柔らかな温もり。次にどうするべきなのかは、なぜか教えられずとも判っていた。
彼が朔夜を見ると、それで良いのだと云うふうに微笑んでくれる。
朔夜が喜ぶのならためらうことなどない。この先に何が続いていても。もし禍となる儀式であったとしても迷わない。
するりと虚空の鞘から引き抜くように、長い刀身が輪郭になる。夜の暗さの中に在っても、輝いているのではないかと錯覚するほど鮮やかな闇色の剣。
まるで天籍に在る者が生まれながら真名を授かるように、具現した剣は名を携えていた。握り締める掌に、現れた漆黒の剣が名乗る。
「悠闇剣」
彼がはじめて自身の剣を形にした瞬間だった。脳裏で稲妻が走るように、この剣で何をすべきなのかが閃く。突き動かされるように、彼は剣を空に向かって掲げた。
「――還れ」
果てしなく高い天へ。
もう嘆くことも恐れることもない。とめどない悪意に繋がれていた鎖は外れた。囚われていた禍根から解き放たれ、穢れのない氣となって再び巡る。
安らかな境地で、輪廻する。
「――――……」
彼は言葉もなく、天を貫くかのように舞い上がった漆黒の光景に魅入っていた。
不毛な戦いの終焉。こんなにも簡単なことだったのだ。
鬼が悪意を形作るのではない。悪意が鬼を形作る。
弱い心を映す。
闇の地――鬼門。この世の悪意がわだかまる鬼の坩堝。人々の断末魔の無念、哀しみ、苦痛、負の連鎖が淀んでいる地。黄帝が代替わりしてから、天帝の加護がうまく発揮されていない昨今、坩堝を満たす負の連鎖は限りなく肥大していたのだろう。
自分も囚われていたのだ。
それを朔夜が教えてくれた。その身を以って、どんな憎悪も呑まれるほどの、この哀しみを形にするために。
天高く突き上げる真っ黒な鬼柱。切ないほど美しい光景が、すぐに溢れてきた涙で歪んだ。彼が掲げていた剣を力なく下げても、この地に淀んでいた果てしない鬼は、与えられた解放に従い天へと舞い上がり続けている。
ずっと戦いの終止符に焦がれていたのに、手に入れた終わりはあまりにも残酷だった。彼には朔夜を抱きしめて泣くことしか出来ない。斬り付けた筈の傷を手当てすることも出来ず、ただか細くなっていく呼吸だけを感じていた。
「どうして。朔夜、どうすれば……」
「泣かないで下さい」
小さな声が彼を包みこんだ。指先が語る言葉と同じように温かな声だった。彼は咄嗟に朔夜を抱きしめていた腕を緩めて、改めて彼女を見た。
一体何が起きたのか、何が起きているのか分からない。
朔夜の美しい顔がこちらを向いている。焼け爛れていたかのような痛々しさはどこにも見つけられない。まるで呪いを解かれた美姫のような微笑みがあった。濃紫の深い眼差しがじっと彼を見つめている。これまでに幾度となく頬をなでるようにあてがわれた掌。同じ仕草で彼女は彼に触れる。
「この別れは私が守ろうとした先途です。私が望んだ途。……あなたのせいではありません。もう苦しむことはないのです。だから、泣かないで」
彼は激しく頭を振った。彼女の示すことが把握できない。
抱えている体が少しずつ霧散していくのがわかる。器を形作る魂魄が流れ出て、輪廻しようとしているのだ。
朔夜が姿を消そうとしている。永遠に、自分の前から。
彼女がどうしてそんなことを望むのか分からない。
「あなたにはこの世を助けることができます。恐れずに彼らに名を与えて――、陛下は、―――」
唐突に声が聞き取れなくなる。いつまでも訊いていたい、彼女の言葉が。
「分からない、朔夜。聞こえない」
声はどんどん小さくなり、腕の中で姿がゆらりと輪郭を失っていく。朔夜は最後まで何かを伝えようと唇を動かしているが、全てが残像のように心許ない。
「どうか、――忘れないで――……」
彼女の声は全てを伝えきれないまま掻き消えた。腕の中には抜け殻のように残された着物だけを抱いている。美しい微笑みはほんの束の間しか見ることが叶わなかった。
跡形もなく失われた輪郭。
柔らかな言葉はもう聞こえない。
「っ、朔夜――」
逝かないで、傍にいてという叫びは、声にならなかった。喉を競りあがってくる嗚咽が全ての言葉を呑み込んでしまう。
何もない荒野に独り。
彼は遺された着物だけを抱えて慟哭した。




