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シンメトリーの翼 〜天帝異聞奇譚〜  作者: 長月京子
第四話 闇の在処(ありか)

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序章:五 緋国:遺された言葉三

 (しずか)の言葉は信じるに値する筈なのに、さすがに緋桜(ひおう)はためらいを感じた。静はすぐに緋桜の戸惑いを察したらしく苦笑する。


「この辺りの関わりが、私にもよく視えない」


 緋桜は迷いながら告げる。


「彼については、……最高位の華艶(かえん)の美女が、――多くを語っていると訊きました」


「そうだね。華艶様は先守(さきもり)のなかでも類をみない方だ。天意に一番近い、あるいは天意に愛されていると言われている。私のような者が、あの方の占いを覆せる筈がないだろう」


 云いながらも何か思うことがあるのか、静は吐息をつく。緋桜がじっと見つめていると、静は困ったように曖昧に微笑んだ。

 緋桜は彼が呑み込もうとした言葉を知りたかった。咄嗟に言葉がついて出た。


「私は何があっても静様を一番信じます。あなたが娘の為に得た未来ならば、誰にも侵せる筈がありません」


「ありがとう、緋桜。……あなたには打ち明けておこう。(わざわい)を映すが如く視えなくなる未来。私の死もその闇の中に垣間見えた。そして、私はその視えない未来の片鱗に、必ず華艶の美女を視る。それが何を意味するのかは判らない」


 緋桜にもどのように考えるべきか判らない。華艶の占いは的確に未来を映す。その事実だけが噂となって天界を揺るがしている。


 禍を映すが如く見えない未来。彼が先守として与えられた運命を享受していれば、やがて彼が死に至る何か――事件が在ったのだろうか。


 静はすでにその運命に抗い、先守の禁忌を犯してまで自身の魂魄(いのち)を娘の為に捧げてしまった。

 緋桜にはただ漠然と良いことではないという危機感だけが競りあがってくる。不安が募った。緋桜が袖を握りしめる力を強めると、静が取り繕うように付け加えた。


「――華艶様は稀有なお方だ。私達には計り知れない力をお持ちになる。だから、既に禍の関わる最悪の結末を知って、それを塗り替えようと動いておられるとしても不思議ではない。それが未来を占いにくくしているのかもしれない」


「それは……」


 たしかにあり得るのかも知れない。けれど緋桜は意味もなく胸騒ぎを感じる。静がもっと違うことを考えていると気付いてしまったからだ。言葉を詰まらせて黙り込んでしまうと、静は見抜かれていることを察したのか、ふっと体から力を抜いたのが判った。


「あなたに全て訊いてほしいと云ったのは、私のほうだったのに」


「静様」


「私はこれまで先守(さきもり)として未来を占ってきたが、それで感じたことがある。世の行く末は些細な出来事で形を変える。未来は変わる、あるいは変えられる。だからこそ、不変の未来は存在しない。――手の届かない世の行く末を語ることなど、本当は誰にも許されないのではないかと」


「それは、先守でも?」


「そう、先守でも。例えば、明日魂魄(いのち)を失う人の寿命を語るのと、見えない未来を語るのは意味が異なる。先守は手の届かない未来に対しては助言しか行えない。――おそらく、華艶の美女を除いては」


 静はさらりと深い紫の法衣(ほうえ)の裾を払って、広廂(ひろびさし)から簀子(すのこ)へと下りた。そのまま広廂の縁に腰掛けると立ち尽くす緋桜を振り返って仰いだ。緋桜が追いかけるように傍に座すと、再び口を開く。


「だから、華艶様はこの世の(ことわり)を超えた先にいらっしゃる方なのかもしれない」


 静はそれ以上考えても意味がないと知っているのか、傍に座る緋桜を真っ直ぐに見つめた。


「それでも、緋桜。これから何があろうとも、あなたには私の遺した言葉を信じてほしい。私が娘の為に遺した言葉だけを」


「はい、もちろんです」


 深く頷くと静は安堵したように笑う。手入れされた庭が色褪せるほど美しく儚い微笑み。脆く崩れ落ちそうな寿命を知りながら、静は強い意志を閃かせて告げる。

 穏やかな声に込められた告白には、迷いもためらいもない。

 微塵も揺るがない真実が、そこに在るように。

 魂魄(いのち)を賭けて知りえた未来を、静は長い時をかけて緋桜に語ってくれた。


「どこまでが、あるいはどの経緯(いきさつ)が形となるのかは、私にもわからない。ただ、娘を数奇な運命から守ってくれるのは、――闇呪(あんじゅ)(きみ)。禍であると云われている彼だけだ。そして彼が娘を輝いた未来へ導いてくれる、その魂魄(いのち)を賭けて。だから恐れずに信じてほしい」


 緋桜は動じることなく、しっかりとその言葉を受け止めた。静はたしかに言葉が届いたことを感じ取ったのか、ゆっくりと立ち上がった。履物に足を通し庭に下りると、その場に座したままの緋桜に触れる。


「緋桜、私はもう行くよ」


 いつもと変わらぬ仕草で静が別れを告げる。緋桜もいつものように笑って送り出そうとしたが、みるみる視界がぼやけて涙が零れた。それでも微笑もうとすると、静が労わるようにそっと唇を重ねる。触れた熱はすぐに涙の味になった。


「静様……」


 思わず行かないでと取り縋りそうになると、彼の長い指先が言葉を封じるように唇に触れた。最期は独りにしてほしいという思いが、胸に沁みて何も言えなくなる。「緋桜」と優しい声がした。


「これからも、あなたを愛している。たとえ逢えなくても、何も変わらない」


 愛しげに彼が緋桜の涙を拭う。幼い頃から幾度(いくど)、静に涙を拭いてもらったのだろう。

 数え切れない思い出が、今は緋桜の哀しみを深める。

 これまで共に過ごした光景が瞬く間に胸を占め、幾重にも溢れ出る。静の声はどんな時も穏やかで優しい。

 そして、強くて愛しい。


「あなたと過ごした時は、この身に余るほど幸せだった。私が先守となってもあなたは変わらぬ想いで傍に在ってくれた。それがどれほど救いとなったか」


 そんなことはないと訴えるように、緋桜は静の痩せた手を両手で捉まえた。自分の方がずっと癒されてきたのだ。彼の優しさに甘えてきた。


 この最期(さいご)の時でさえ、笑顔を向けて送り出すことが出来ない。

 静が身を屈めるようにして、そっと緋桜を抱きしめた。肩越しにかすれた声が響く。


「緋桜。私に(ゆめ)を与えてくれて、――ありがとう」


 体を支えていた腕が解かれる。彼は体を労わってほしいと告げて、すっと踵を返した。


「静様」


 緋桜は涙を拭って精一杯明るい声で呼びかけた。嗚咽を漏らしそうになるのを堪えて、振り返った静に笑顔を向ける。袖を振ると、彼は頷いて微笑んでくれた。


 緋桜は彼の姿が見えなくなるまで笑顔で見送り、そして深く頭を下げた。

 動けずにいると、庭から慰めるように風が舞い上がる。姿のない静の残り香がふわりと漂って緋桜を包み込んだ。


 彼の香り、温もり、声、顔貌(かおかたち)


――これからも、あなたを愛している。


 蘇るのは、優しく微笑む仕草。触れた指先。


――私に(ゆめ)を与えてくれて、――ありがとう。


 分かち合うものがある、だから哀しむことはないのだと。

 彼の生きた証が、この身に宿っているのだから。

 けれど。

 だからこそ本当は。


「――傍に、……」


 傍にいてほしかった。

 わが子を抱いて、一緒に笑ってほしかったのだ。

 緋桜は哀しみを閉じ込めきれず、声を上げて泣き崩れた。

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