序章:四 緋国:遺された言葉二
緋桜の居室に戻ると、静は広廂に歩み出て庭を見渡した。まるで眺めるもの全てを懐かしんでいるような横顔は、昨夜よりもさらに蒼白い。彼の魂魄が流れ出しているような気がして、緋桜は思わず背中から抱きしめた。静は緋桜をあやすように、背中からしがみついている腕に触れる。
「ここは変わらない。いつ訪れてもあなたが迎えてくれた。――ありがとう、緋桜」
穏やかな声が哀しすぎて、緋桜はしがみついたまま首を振る。
「私はこれからも、ずっと静様を待っていられます」
彼の訪れを待つことは、緋桜にとって慶びだった。これからもそれは変わらない筈なのだ。最期なのだということを考えたくない。緋桜の悲痛な願いを、静は無言のまま遮った。今にも泣き崩れそうになる緋桜と向かいあって、それではいけないのだと首を振る。
「我儘ばかりを押し付けることになってしまうが。……緋桜、あなたには強くなってほしい。これからは、ここで私を待っていてはいけない」
「――嫌、です」
激しく頭を振ると、静が緋桜の小さな肩に手を置いた。そっと法衣の袖で頬に触れ、止め処なく溢れる涙を拭ってくれる
「私はもう先守である誇りすら捨てた罪人だ。己の望み、娘を守るために禁忌を犯した。――それでも後悔はしていない。だから、あなたに伝えておかなければいけないことがある」
緋桜は嗚咽を呑み込んで、ぼやける視界に彼を映す。
「訊いてくれるね」
緋桜が意思表示する前に、静は哀しげに表情を歪め、強く緋桜を抱きしめた。
「本当にすまない。紅の宮にこの上なく不名誉な未来を強いて、あなたからも我が子を抱く権利を奪った。――私はそんなことを望む為に、未来を視たわけでは、ないのに……」
自分を抱く静の腕が震えている。彼も泣いているのかもしれない。哀しみで飽和しつつある緋桜の心を上回る勢いで、静の苦痛が伝わってくる。
彼が先守でなければ、そんなふうに苦しむ必要はなかっただろう。自身の魂魄の期限を知ることもなく、娘の身に起きる不遇を知ることもない。中宮や緋桜に苦渋の助言を行い、それを重荷に感じることもなかった筈なのだ。
何も知ることがなければ、彼は娘の幸せを信じて、ただ魂魄が尽きるまで安らかに過ごせたかもしれない。
けれど。
緋桜は自身の揺らぎそうになる足元を見つめなおして、「静様」と呼びかけた。
「あなたのおかげで、生まれてくる娘を守ることができます」
彼が先守でなければ、生まれ来る娘に未来はなかった。
緋国にとっても、中宮の不名誉な醜聞ではすまされない、もっと最悪の結末が待っていただろう。
「私にとって、それ以上に望むものなどありません」
愛した人との子が守れるならば、どのような運命でも受け入れてみせる。それが儚くこの世を去る静にとっても、何より餞になるだろう。
緋桜は気持ちを奮い立たせて、しっかりと顔を上げた。静にもその決意が伝わったのか、濡れた瞳のまま微笑んでくれる。
「――私も生まれ来る娘に幸せになってほしい。それが夢だ」
緋桜が判っていますと頷くと、彼は続けた。
「そのために、様々な未来を映すことになってしまった」
彼は緋桜の肩に手を置いたまま、遥かな未来を手繰るように遠い眼差しで廂の下から空を仰ぐ。
「自身の望みを叶えるために占いを用いる。私は先守のその禁忌を犯した。――だから、この魂魄は、もう今にも消えてなくなってしまうかもしれない」
緋桜は彼の法衣の袖を強く握っていた。ひとときでも長く、彼をこの世に繋ぎとめておきたかったのだ。意味がないと判っていても力を込めずにはいられない。
「だから、私が先守の誇りを賭けて視た未来を、あなたにだけ伝えておきたい」
再び静の菫色の瞳が緋桜を映した。緋桜はゆっくりと頷いた。
「生まれてくる娘の数奇な運命は緋国の確執だけに留まらない。いや、それを乗り越えてからが、本当の始まりになるだろう」
「本当の始まり?」
緋桜が問い返すと、静は痛みに耐えるかのように頷いた。
「――私達の娘は、相称の翼になるかもしれない」
突然の告白に、緋桜は感情が追いつかない。ただ「相称の翼」と繰り返すことが精一杯だった。静は目を閉じて脳裏を探るかのように打ち明ける。
「けれど、その事実に関わる未来が私にも良く視えない。真っ暗な影に覆われている。まるで禍を映すがごとく」
「それは、現黄帝と共に生まれたという禍、――鬼の坩堝の番人が関わっているということですか?」
危惧する緋桜とは裏腹に、静は穏やかに笑う。違うと言いたいのがすぐに判った。
「私の映す未来がどれほど鮮明に先途を捉えているのかは判らない。だけど、娘に関わることは過っていないと信じている」
「もちろん、私も静様の言葉を信じます」
先守として静は高位にある。最高位に就いている華艶がいなければ、歴代でも稀有な存在だっただろう。その彼が娘のために、己の全てを賭けて映した光景。緋桜には疑う余地などない。
「この宮家では与えらないが、私達の娘はいずれ朱桜と呼ばれるようになる」
「――朱桜」
綺麗な愛称だと、緋桜は少しだけ心が晴れる。娘の未来の兆しを垣間見た気がしたのだ。たとえ自分に娘として慈しむことが許されないのだとしても、そんなふうに娘を想ってくれる誰かが現れるのなら、これからの経緯をじっと耐えられる気がした。
「鬼の坩堝の番人――闇呪は禍の本質ではないかもしれない」




