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シンメトリーの翼 〜天帝異聞奇譚〜  作者: 長月京子
第四話 闇の在処(ありか)

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序章:三 緋国:遺された言葉一

 翌日。緋桜(ひおう)(しずか)と共に中宮の御座所(ござしょ)へと赴いた。

 静の告白が終わると、人払いをした御座所は重い沈黙に包まれる。


 緋桜も俄かには信じられず、体から血の気が引いてゆくのを感じていた。前に重ねていた手は、力を込めても隠しようがないほど、がたがたと震えてしまう。


 中宮の御座所――内裏(だいり)の中心ともいえる朱緋殿(しゅひでん)は、緋国(ひのくに)の王座につく中宮の住処であり、その母屋(おもや)の趣は一の宮として生まれた緋桜にとっては見慣れた空間だった。


 (くれない)(みや)が女王であっても、緋桜にとっては慕うべき母であることは変わらない。今更、中宮との対面に緊張する理由などどこにもない。

 緋桜は蒼ざめた顔色を隠すように俯き、震えを押しとどめようと、指先が白くなるほど強く手を組んだ。


「緋桜――、すまない」


 中宮の御前であることもかまわず、隣に座していた静の声が沈黙を破った。力を込めて組み合わせていた緋桜の手に触れて、労わるように菫を宿した眼差しを細める。


 苦渋の告白をした静。彼はずっとこの衝撃を内包して過ごしてきたのだろうか。緋桜は昨夜の彼の振る舞いを思い、ぎゅっと唇を噛みしめる。


「静殿、あなたは先守(さきもり)です。真実を語ることに罪はありません。あなたが呵責(かしゃく)を背負うことはないのです」


 既に衝撃的な事実を受け止めたのか、中宮である母の声は凛としていた。緋桜が顔を上げると、中宮は毅然と前を向き緋桜に笑いかけた。


「あなたもです、緋桜。あなたにも罪はありません。何も悔いることはないのです。今後の事情がどうあろうと、この母にとってあなた達の子は果報です」


「――母様」


 母の慈愛が痛すぎて、緋桜はじわりと目頭が熱くなった。そのまま悲嘆に暮れそうになる自分を、心の中で叱咤して何とか気持ちを立て直す。零れ落ちそうになっていた涙を辛うじてやり過ごした。


 静の告白。

 先守である彼の言葉に偽りは許されない。


 既にこの体に宿っているという、新しい魂魄(いのち)。緋桜にはまだ自覚がないが、静が云うのだから間違いないのだろう。思わず自身の腹部に手を添えてしまう。


 本来なら愛する人の子を授かることは吉報であり、慶びなのだ。

 緋桜も懐妊を明かされたときは驚きと共に喜んだ。けれど、それも束の間で次の告白によって全てが覆されてしまう。


 女系であるが(ゆえ)緋国(ひのくに)の確執。

 そして、授かった娘の数奇な宿命。

 静は鎮痛な面持ちのまま、落ち着いた口調で続けた。


「私には真実が全て視えている訳ではありません。いえ、むしろ視えることなど、ほんの片鱗に過ぎないのです」


「では、静殿が示唆する未来は変わるかもしれないということですか」


 中宮が腑に落ちないという表情で静に問う。


「占いが不確実な未来を映した場合、先守(さきもり)はそれを語ってはいけない筈です。なぜなら、異なる未来が描かれた場合、先守は魂魄(いのち)を失ってしまうことになります。例えそれが(わざわい)を回避するための善意の行いであったとしても覆すことはできません。世の掟です。黙秘しなければ破滅してしまう」


「中宮様、それはもちろん私も心得ています」


 静は自嘲的に微笑んだ。緋桜は彼の思いつめた横顔を見て、最悪の予感を覚える。体の芯を冷たい針で貫かれたような悪寒が走った。


「――静様、まさか」


 緋桜は声が震えてしまう。中宮も察したのか、厳しい眼差(まなざ)しで彼を捉えた。静は変わらず穏やかな声で語る。決して心を乱さない彼の姿勢が、決意を表しているかのようだった。


「たしかに私が語った占いは、本来先守(さきもり)が語ることを避けるべき不確実な未来です。そして、私は打ち明けた悲劇(みらい)を覆すために全てをお話しました」


 鼓動が止まるのではないかと思うほどの威力で、静の声が緋桜の胸に突き刺さる。衝撃的な告白に耳を疑うが、冗談だと笑い飛ばすには全てが深刻すぎた。

 さすがに中宮である紅の宮も声を震わせる。


「静殿、なんということを――、なぜ? それほどに危惧されるのならば、あなたは黙秘を貫き、私達に助言だけを与えてくだされば良い筈です」


 これから起きるべきこと、未来は――不変なほどに確定していることの方が(まれ)なのだ。だからこそ先守(さきもり)は未来の全てを知ることはできない。ほんの片鱗、一端を視ることが叶うとしても、それらを繋ぐ過程は窺い知れない。まして、占いで視た未来が幾通りもの筋道を描いているのならば、先守には決して語ることが出来ないのだ。


 虚偽の未来を語ることは、先守にとって破滅を意味する。故に先守達(かれら)は黙秘を許され、幾通りにも示された未来をもっとも良き方向へ導く為、助言を行う。


 先守の助言。中にはそれをさして占いと言う者も多い。


 緋桜(ひおう)眩暈(めまい)を感じながら、深く息を吸う。どんなに深呼吸しても塞いだ胸が晴れない。

 静の語った悲劇は、まだ真実となるには至らない不確定な未来。それは歓迎すべき事実であるのに、素直に喜べない。悲劇が覆れば静が破滅するのだ。世の掟によって、魂魄(いのち)を失ってしまう。


 緋桜にはどちらも望むことができない。緋桜と同じように言葉を失っていた中宮は深く息を吐き出し、まるで自身を落ち着けるかのように言葉を吐き出した。


「静殿、あなたほどの先守(さきもり)がなぜそのような方法を選んだのですか。慈しむべき子を授かり、緋桜との未来を思い描いたはずです。あなたが自ら進んで破滅を望まれるとは思えませんが」


「もちろんです。許されるのならこの手に娘を抱いて緋桜の傍にありたい。ですが、私には時間がありません。私は自身の死を視ました。失う定めの魂魄(いのち)ならば、娘を守るために残された全てを捧げます。生まれてくる娘が数奇な宿命を負わされたとしても、幾重(いくえ)にも展開してゆく未来の中で幸せになれる道筋が必ずあるのだと信じています。だから、緋国の確執によって娘が魂魄(いのち)を失うようなことがあってはならないのです」


 静は自身に架せられた絶望的な事実を語りながらも、まるでそれが些細なことであるかのように力強い声で決意を表明する。既に生まれ来る娘のために残された時間を捧げることを決めているのだろう。


 緋桜には彼の死を受け止めることなどできない。けれど、彼の決意に抗うこともできない。どうすれば良いのか判らないまま、悲嘆に占められていく自身を感じていた。

 何かを叫びたいのに声にならない。体だけが小刻みに震えた。


「緋桜、……本当にすまない。私はあなたに愛を()って真名を捧げることもできず、この手で守ることもできない」


 緋桜は激しく首を振った。あなたのせいではないと叫びたいのに、嗚咽に呑まれて何も言葉にできなかった。固く目を閉じても涙は止まらない。


「だから、せめて。――生まれてくる娘の未来を守りたい。そのために今は出来る全てのことを……」


 緋国の確執によって、生まれ来る子が奪われることがないように。

 静の導こうとしている未来が、緋桜には痛々しいほど伝わってきた。いつのまにか中宮は御帳台から移動し、緋桜の傍らに膝をついていた。母として娘の肩を抱き寄せ、慰めるように背を叩く。嗚咽する緋桜を抱いたまま中宮である紅の宮は狼狽することもなく、しっかりと静と向き合った。


「あなた達の娘を守りたいのは、私も同じ思いです。同時に、我が二の宮に大罪を犯してほしくないのも事実です。どうすれば、その悲劇は回避できるのでしょうか」


 緋国の中宮は、代々一の宮に継承されていく。現在の継承権一位は緋桜(ひおう)にあり、二位が二の宮である紅蓮(ぐれん)。緋桜が中宮となれば継承権一位は妹宮である紅蓮へと繰り上がる筈だった。けれど緋桜が懐妊した以上、王座につけば継承権は生まれ来る一の宮に与えられることになる。


 二の宮である紅蓮がその事実を快諾できないだろうことは、緋桜にも想像がついた。

 美しく誰よりも誇り高い妹宮。いずれ宮家を支え、左大臣を要する橙家(とうけ)と縁を結ぶことが決まっている。左大臣家と右大臣家の勢力争いは、いつの世も避けられない。時としてその競合意識が国を盛り上げる起爆剤ともなるが、昨今は異なる様相を呈していた。


 二の宮――紅蓮はその最たる被害者ではないかと緋桜は感じている。

 左大臣を筆頭とする橙家(とうけ)は、紅蓮(ぐれん)という個人を欲しているのではない。後ろ盾となる宮家の威光を手に入れたいのだ。紅蓮のもつ後ろ盾が強いほど執着はおのずと増すだろう。紅蓮自身の価値が高まっていく。まるで彼女自身への愛が深まっていくかのように、それは甘い錯覚を抱かせてしまうにちがいない。


 二の宮である紅蓮に、自覚があるのかどうか判らない。

 なぜそれほどに高みを目指すのか。王座に焦がれているのか。


 緋桜には想像するのが容易(たやす)い。

 紅蓮はただ愛されたいのだ。橙家との縁が政略的なものであっても、それを承知していても、彼女は翼扶(つばさ)となり、比翼(ひよく)を得ることを夢見ている。


 本人が語ったわけではい。気位の高さが決してそのような本音を吐かせない。けれど緋桜にはそう思えた。

 真実の愛に焦がれる想い。それが形を歪ませて御位(みくらい)への執着と成り果てている。

 いずれ中宮となる緋桜の懐妊を、紅蓮が祝福できるはずがないのだ。


 静が視たであろう幾つもの道筋。最悪の末路として真実になるのかもしれない光景。

 紅蓮が緋桜の娘を手にかけることは、大いにあり得るだろう。そして、自身を後継者と認めない中宮、母でもある紅の宮を陥れることも考えられる。


「いずれ緋国の確執が引き起こす悲劇をどのようにすれば避けられるのか。静殿、救う方法を教えていただきましょう」


 中宮が覚悟を決めたかのように揺ぎ無い声で請う。静は何かを悼むように目を伏せ、苦痛を噛み締めるように深く頷いた。


「――はい、謹んで申し上げます」


 静は床に額がつきそうなほど深く平伏(ひれふ)す。やがて朱緋殿(しゅひでん)母屋(おもや)に、緊張を隠しきれない低い声が響いた。

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