序章:二 緋国(ひのくに):緋桜(ひおう)と静(しずか)
夜の藍が以前よりも鮮明さを失いつつある。昼の輝きも少しずつ変化を始め、昼夜の区別が昔よりも克明ではないせいかもしれない。
黄帝が代替わりしてからの御世は、全てが精彩を失いつつある。誰も口にはしないが、天帝の加護が少しずつ費えているのは隠しようのない事実のようだ。
先帝が失落してから、すぐに新たな黄帝が誕生した。しかし金域の玉座に即位するまで、幾許か空白の時を余儀なくされた。新たな御世が始まってから、まだ日が浅いのだ。世の歯車が全て噛み合うまで、少しばかり時が必要なのかもしれない。
緋桜は居室の開け放たれたままの半蔀から、果てのない夜空を眺めていた。
現状を憂慮しながらも、自身が緋国の王座につく頃には、全てが噛み合っているのだろうと思い直す。深刻に考えるほど危惧はしていない。
変わらぬ穏やかな夜。緋桜は半蔀を閉めるように云ってから侍女をさがらせた。
夜は長い。休むには早い気がして、文机に向かった。
「――緋桜」
ふいに名を呼ばれ、はっとして振り返る。空耳かと思うほどの、かすかな声。
声と言うよりは、動きのない空間をわずかに震わせる風のようだった。
緋桜は庭に面した広廂に慣れた気配を感じる。目を凝らすと、美しい朱塗りに彩られた格子の向こうに、影が透けて見える。幾重にも纏った緋色の衣装をさばき、緋桜は慌てて立ち上がった。転びそうな勢いで向かうと、すぐに見慣れた人影が庭から歩み寄ってくるのを見つけた。
驚きよりも先に、思わず顔を綻ばせてしまう。
「静様」
このような夜更けに、内裏の後宮にある次期女王の紅閨を訪れ、咎められないのは彼しかいない。
先守――静。
朱に馴染む緋国の光景に、良く映える容姿。赤漆で染められた柱の鮮やかさを引き立てるような、鮮烈な紫の法衣。そして衣装以上に静の双眸は美しい菫色を湛えていた。緋桜にはその不可思議な色合いが自分の姿を捉えて微笑むのが、夢のように感じられる。至福のひとときの訪れを思い、愛しさに胸が痛くなるほどだった。
思わず幼い頃からの習慣で駆け寄りそうになったが、緋桜はすぐに思いとどまって態度を改めた。しとやかな姫宮がするように、床に手をついて深く頭を垂れた。
「ようこそ、おいでくださいました」
礼儀正しく平伏すると、静がすぐ近くまで歩み寄ってくるのが判った。なんのためらいもなく広廂に上がり、至近距離で膝をつく気配に、緋桜は勢い良く面を上げて訴える。
「静様っ、せっかくきちんとお迎えしているのに」
思わず不平を唱えると、静は悪戯めいた微笑みを浮かべた。
「あなたは立派な女王になられるだろう」
「それは皮肉ですか」
思わず頬を膨らませると、静は声をたてて笑う。幼い頃から変わらない身近な気配に、緋桜は礼儀正しい姫君を演じるのを諦めた。華やかな衣装の袖を翻らせて、静の首筋に腕を回して、身を寄せるように力を込める。
静の母は、現在緋国の王座にある中宮、紅の宮の――緋桜の母の妹になる。緋国の二の宮であった彼女は、滄国の末の太子と縁を結び、先守となる静を生んだ。静は緋桜より一回り年上で、一番年の近い従兄弟だった。おかげで緋桜は幼い頃から兄のように静を慕ってきた。
精一杯腕を伸ばしてしがみつくと、静はこたえるように緋桜の体を抱き寄せた。幼い頃とは違う力強さに包まれて、緋桜は目を閉じる。
誰よりも優しい従兄弟。愛しさに眩暈を感じる。
彼に恋していると気付いたのは、いつだったのか。
これほどに愛して止まなくなったのは、いつからだろうか。
緋桜は今更のように、想いを馳せる。
無邪気に過ごした日々は瞬く間に過ぎて、やがて静が先守として紺の地に赴く日が訪れた。これまでのように会えなくなる寂しさに涙した日。
会えないはがゆさを堪えて静と再会できた時、緋桜は溢れる涙を止めることができなかった。会いたかったという声は、涙に濡れて言葉にならなかった。
変わりに静が言葉にしてくれたのだ。あなたに会いたかったと。
同じ想いで互いを求めていたと知ったのは、その時だったのかもしれない。
久しぶりの逢瀬を噛み締めながら、緋桜は少しだけ静から身をはなした。彼の顔をよく見ようとして仰ぐと、夜の藍に包まれているだけではない、蒼ざめた顔色に気付いた。
「静様、どこか体の加減が?……それとも、占いで消耗されたのですか」
顔を曇らせて体に触れてみると、以前よりも痩せているような気がする。
「何か、良くないことが?」
不安になって彼を見つめていると、美しい菫の瞳に翳がよぎった。静は暗い想いをやり過ごすように、緋桜に触れる手に力を込める。
「緋桜、――今夜はあなたに逢いに来た。だから、あなたのことだけ考えていたい」
優しげな声とは裏腹に、抗うことを許さないような力強さに囚われ、緋桜は身を委ねることしかできなかった。
先守が視る未来の断片、片鱗。それは必ずしも祝福に満ちているとは限らない。
これまでも、静を苦しめる占いがなかったとは思えない。
緋桜には先守の力が彼らの内にある何かを大きく磨耗させていく気がしてならなかった。 彼らしくない振る舞いに秘められた真実。訊くことが恐ろしくて、緋桜は問うことができなかった。




