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シンメトリーの翼 〜天帝異聞奇譚〜  作者: 長月京子
第三話 失われた真実

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第十三章:5 決別

 考えなければならない事が、胸の内で幾重(いくえ)にも絡まっている。

 なぜ朱里(あかり)が禁術についての詳細を知ることが出来たのか。彼方(かなた)達に聞いたのか、あるいは夢に映る光景が、彼女に教えてしまったのか。


 もし誰かに相称(そうしょう)(つばさ)としての立場を知られたのなら、事態は大きく動き出すだろう。

 怪我を労わっている余裕などなく、時を惜しまなければならない筈なのだ。

 頭の片隅で冷静に次のことを考えながらも、(はるか)は既にそれが無駄な分析であることを悟っていた。

 泣きながら訴える朱里の覚悟が、先の展開を予感させたのだ。

 全てが意味を失う時が訪れるのだと。


「――朱桜(すおう)


 予感に違わず、驚くほど呆気なくその時は訪れた。

 本性を取り戻した彼女が、びくりと白い肩を震わせるのが伝わってくる。身の丈と同じくらいに伸びた、目の覚めるような金色の髪。真っ直ぐに伸びた髪は艶を持って垂れ下がり、何も(まと)わぬ姿を隠すように白い肌に落ちかかっている。


 真相を明らかにするため、いずれ禁術は解かれなければならなかった。けれど、あまりに唐突に訪れた瞬間に、遥は考えが追いつかない。

 裸身であることに戸惑っている彼女の仕草を感じて、機械的な思考が働くだけだった。彼女の小さな肩にそっと手身近な上着を羽織らせる。


 互いに言葉のない沈黙の中で、ただ夢を見ているのではないかと言う気がしていた。

 けれど、そんな錯覚もすぐに費えてしまう。

 本性を取り戻した朱里(あかり)――朱桜(すおう)は、与えられた上着を両手で引き寄せるようにして(まと)い、ちいさな肩を震わせていた。すぐに沈黙が嗚咽によって打ち消されてしまう。

 いつかと同じように、彼女が繰り返した。


「ごめん、なさい」


 まるで時間が巻き戻されたかのように、朱桜(すおう)はただ詫びる。

 何をどんなふうに捉えるべきなのか、判らない。

 彼女の発した禁術に関わっていたのが、自身の真名(まな)であったこと。それを素直に彼女の想いとして受け入れるべきなのか、ただ全てが複雑な事情の上に成り立っていたのか。


 目の前に現れた眩いばかりの金色が、遥の意志を後者へと導いてしまう。

 金を(まと)うのは、黄帝への想いが結実した姿。

 その真実に勝る事実など、あってはならない。いかに禁術に関わろうと、遥にとっては金を纏うという意味が全てに勝る。


 手を伸ばせば触れることの出来る距離に在るのに、彼はもう手を伸ばすことが出来ない。心に刻まれた禁忌が、彼女に触れることを許さない。

 かけるべき言葉を見つけられずにいると、再び朱桜が詫びた。


「ごめんなさい、先生」


 先生という言葉が、少しだけ彼女を身近な存在に戻してくれる。朱桜は朱里であり、唐突に訪れた瞬間も、他愛なく過ごした日々の続きであることに変わりはないのだ。どちらも失われずに在ることが、遥にとってはわずかな救いだった。


「私はもう、あなたの傍にいることなどできなかったのに。それを認めることができなくて。こんなふうに、――夢を見て、本当のことから目を逸らしていました。禁術があなたを巻き込んでしまうことを、考えもせずに……。私はとても浅はかで、愚かです」


 彼女は禁術がもたらした結末を知って、自身の行いを責めているようだった。止むことのない悲嘆に暮れ、後悔に囚われている。


「ごめんなさい。こんなことになってしまって、……こんな」


 声を詰まらせて、彼女は他の仕草を忘れてしまったかのように、ただ小さな肩を震わせる。嗚咽(おえつ)を堪えるように唇を噛んでいた。

 真実を打ち明けられても、遥は声を殺して泣く小さな姿を責める気にはなれない。どんな姿をしていても、誰を想っていても、彼女を愛したことを後悔はしない。


 自分の想いは、与えられることを望むのではない。

 彼女には、既に抱えきれぬほど与えられてきたのだ。今更、何を望むというのだろう。


朱桜(すおう)、全てを取り戻したのなら、自身が望むことを形にすればいい。私に謝る必要はない。君に伝えたことは揺るがない。私は君の希望を守る」


「本当は――」


 涙に潤んだ金色の虹彩が煌めいている。禁術の殻は正しく本性を形作っていたのだろう。

 金色の煌めき以外は何も変わらずに在った。遥は思わずこれまでと同じように手を伸ばそうとして、すぐに思いなおした。


「本当はあなたと一緒にいたい。それだけを望んでいました。――こんなことになるまでは」


 朱桜はやりきりないというように、金色に変貌した長い髪を一房掴んだ。その変貌が何を意味するのかは、彼女にも判っているのだ。

 相称の翼。彼女は疲弊した世を救う、最大の切り札となる。


「もっと早く」


 震える声と共に、はらはらと涙が散る。縋るような眼差しが涙に濡れたまま、遥を見つめた。


「もっと早く、伝えていれば良かった。――私が愛しているのは、あなただけだと」


 弱い叫びは切実な響きをしている。それが真実であると錯覚できれば、どれほど幸せだっただろう。けれど、(はるか)は痛みを感じた。

 心の深いところを抉る約束。彼女に架した、哀しい約束が蘇る。


(その日が来たら、君は私にこう言う。――愛しているのはあなただけです。だけど、この世を見捨てることが出来ない。だから、行きます。――と。そう言って欲しい)


 朱桜は(たが)わず、成し遂げてくれるに違いない。

 どうして、そんなことを望んでしまったのだろう。そんな約束では、決して夢を見続けることなど出来るはずがないのに。


 こんなに意味のない芝居を続けて、いったい何が、誰が救われるだろう。ただ彼女の言葉が偽りに染められて、穢れてしまうだけなのだ。祝福するべき黄帝への想いを歪ませることなど、誰にも許されはしない。


朱桜(すおう)、もう――」


 もういいのだと伝える筈の言葉は、彼女の声に遮られた。


「愛しているのは、あなただけです」


 偽りだと分かっているのに、その声は強く響く。

 胸の裏を貫く痛みに耐えるように、遥は固く目を閉じた。

 慈悲深い黄后としての気質が、既に彼女の言動には表れているのかもしれない。朱桜は決して約束を違わない。それが遥の想いを永遠に守り続けると信じているから。

 遥が――、闇呪(あんじゅ)が望んだとおりに、彼女は愛を語ってくれる。


「本当です。愛しているのは、あなただけです。――だけど、この世を見捨てることが出来ません」


 遥はゆっくりと美しい金色の双眸(そうぼう)を見つめた。

 涙に潤んでいても、逸らされることなく真っ直ぐに自分に向けられた眼差し。

 かつて見慣れた朱の瞳は、もう二度と見ることが叶わない。彼女が幸せを掴むのは自分の傍らでは有り得ないのだと、金色に輝く瞳が教えてくれる。


 それでも。

 遥の想いを護ろうとしてくれる、朱桜の精一杯の想いが愛しい。約束を反故(ほご)にしないための、最期の砦となる。彼女に望んだ約束が、自身の想いを救うことがなくても、ただ黄后となる彼女の罪悪を拭うのなら、いまさら覆すことは出来ない。彼女の慈悲に答えることが出来るのなら、もうそれだけで良い。


 それだけで、この歪んだ約束が意味を持つ。

 遥は偽りに縛られた朱桜の言葉を、静かに受け入れた。


「朱桜、その想いだけで私は満たされる。だから、君は望むままに往けば良い。世界を育む立場に在る限り、私達の決別は仕方がない」


「どうして、こんなことに――」


「哀しむことも、悔いることもない。君と共に在り、私はこの世の美しさを知ることが出来た。だから、これからも想いは君と共に在る。この世を失いたくないという想いで、私達は同じ処に繋がっている」


 はらはらと涙を零したまま、彼女はただ遥の言葉を受け止めていた。


朱桜(すおう)、この世を見捨てられないのは私も同じ。そのために必要なら、私はどんな運命も受け入れる。だから、悔いることはない。その役割を誇りに思ってほしい」


「だけど、私はあなたを失いたくありません。運命に抗ってでも救いたい。絶対に死なせたりしない。そのために、出来ることがある筈です。約束します、闇呪(あんじゅ)(きみ)。絶対にこの世からあなたを失ったりしない」


 遥は微笑んでから、深く頷いて見せた。痛々しいほど頑なに、彼女は最後まで想いを護ってくれる。黄帝への想いを隠し、偽りで築かれた想いを演じ続ける。


「あなたの傍にいられれば、私はそれだけで幸せでした。だけど、今は。――今は、護りたいものが在ります」


 (はるか)は痛みに耐えて、彼女の演技に応えた。何も言葉にせずただ頷く。

 絶望に濡れていた表情(かお)を決意で拭い、朱桜(すおう)が告げる。


「だから、――――私は()きます。許してください」


「詫びることはない。望みは、いつでも君と共に――」


 在ると伝えようとした言葉は、飛び込んできた衝撃に遮られる。長い金色の髪が翻るのを、遥は体に触れた体温と共に感じていた。しがみついている小さな体は、今までの記憶を鮮明に蘇らせる。天界に在っても、こちらの世界に在っても、相称の翼となっても、彼女は変わらない。いつでも同じ輪郭(かたち)で、遥の前に現れた。


「許してください。あなたが好きで、――とても大切なんです。だから」


 最後まで、彼女は偽りを演じてくれる。

 想いを護り続けてくれる。

 遥の想いだけを。


「だから、――さよなら、です」


 身近に触れていた熱が、ふっと遠ざかる。手を伸ばして追いかけたい衝動に駆られたが、遥は身動きできないまま立ち尽くしていた。

 滲んだ視界の中で、ただ彼女が立ち去るのを見送ることしかできなかった。

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