第十三章:4 封印の解除
朱里にも、判ってはいるのだ。
それでも。
この恋が過ちだとしても、失うことの出来ない想いが在る。
刻まれた気持ちから心が離れない。
どんな憂慮も不安も色褪せてしまうほど、今は彼に届かない気持ちが、一番哀しい。
「先生は、ひどい、です」
遥の手を握る指先が震える。
言葉にすると、堪えていたものが溢れ出た。度のない眼鏡のレンズが濡れて、目の前の像を歪ませる。止める術を見つけられないまま、それは熱い雫となって幾筋も頬を伝っていく。朱里は眼鏡を外して、目元を隠すように両手で覆った。
「私の気持ちを、全然、……信じてくれません」
「そんなことは――」
ないと言う彼の言葉を遮るように、朱里は起き上がっている遥の上体に腕を伸ばした。しがみついた勢いで辺りに涙が散る。彼は厭うこともなく、朱里の体を抱きとめてくれた。
「先生が好きです、誰よりも。本当、です。信じてくださ、い」
泣きながら、それだけを伝えるのが精一杯だった。
錯綜する想いの中から、込み上げてくる何か。
もどかしいほど彼を想う気持ちと、最悪の予感。
自分の心がはっきりとした輪郭にならない。封印された事実が、全てに目隠しをしている。なのに、涙が止まらない。哀しくてたまらない。
本当は既に気がついていたのかもしれない。
封印の向こう側に、避けて通れない別れがあることを。
遥の語る真実の名が、きっとこの夢を終わらせてしまう。
ままごとのような日常。まるで夢のようなひととき。
何も知らずに、彼への想いを育てていられた時間。
その全てが失われてしまう。
「君の想いを信じる。だから、朱里――泣くな」
しがみつく朱里の体を受け止めたまま、遥が囁く。
「君に泣かれると、どうすればいいのか判らなくなる。君は何を望む? どうすればいいのか言ってほしい」
朱里はしゃくりあげるように肩を上下させて、遥の背中に回していた腕を解く。遥の手が朱里の二の腕を掴んで引き寄せた。朱里は濡れた瞳で、彼の端正な顔を見上げる。
ためらいのない闇色の瞳に、小さく自分が映っていた。
自身の抱いた決意は、既に彼に見抜かれている。零れ落ちる涙に触れる遥の指先が冷たい。
「本当は恐い、です。自分の真実を知ることが、恐くてたまらない」
何から打ち明ければいいのか判らない。判らないまま素直に心境を告白すると、遥は労わるように頷いてくれた。
「君が恐れるなら、私はどんな真実も求めない。朱里が恐れることなど何もない」
彼はどんな時も変わることなく朱里の望みを受け入れてくれる。その優しさが棘となって、朱里の胸に痛みをもたらした。
想いが沁みる。
朱里はそうではないと、首を横に振った。自分に向き合ってくれる遥に支えられて、本当の気持ちだけを口にする。
「だけど、もっと恐いのは、先生や、麟華や麒一ちゃんを失ってしまうこと。それが一番恐い。先生が傷つくのを見ているのが、一番嫌です。苦しくてたまらないから」
真っ直ぐに自分を見つめる遥の瞳に、澄んだ闇を震わせる戸惑いが生まれた。朱里は覚悟を決めて自分の望みを告白する。
「先生が苦しむのを見ているのは耐えられない。――私のせいで先生が追い詰められてしまうのは嫌です」
「君のせいじゃない」
まるで叱咤するかのような激しさで、遥の声が重なる。それでも朱里は怯まずに続けた。
「私はもう知っています。そして、どうすれば良いのか判ってしまった。判ってしまったから、もう知らないふりはできません。私が封印した記憶の鍵は、先生が持っているんです」
「朱里、それは違う。君は何も知らないだけだ」
「知っています。禁術に必要なのは愛した人の名まえです。だから、私に必要な真実の名は――、禁術を解く鍵は、先生が持っています」
知り得た事実を隠さず打ち明けると、遥が言葉を失ったかのように動きを止めた。朱里は目を逸らさず訴える。
「あなたが好きです。だから――っ」
まるで言葉を遮るように、自分の腕を掴んでいた遥の手に力が入る。朱里は引き寄せられるままに身を委ねた。強く抱きすくめられる。
「朱里」
振り絞るような彼の声が、頬を押し当てた胸元からも響いて来た。彼の戸惑いが鼓動と共に伝わってくる。
「先生、この気持ちを信じてください。――私は真実を知りたい」
恐ろしくても、この手で護れるものが在るのならためらわない。非力な自分にも、出来ることが在るのなら。
護られた立場を切り捨てる覚悟と共に、朱里は封印の鍵を求めた。
「先生の真実の名前を、教えてください」
「それで、全てを取り戻せるとは限らない」
「私の気持ちを信じてください」
強く訴えると、朱里の体を抱くように回された遥の腕が緩んだ。彼は朱里と目が合うと、哀しげに微笑む。暗い眼差しの中に、隠しようもなく見え隠れする想い。
朱里への愛しさが滲んでいた。
「私の真実の名は、既に君に証として捧げたものだ。もう一度語ることに、何の問題もない。ただ、……その前に」
その前に――、まるで最後にと言いたげな響きを帯びた声だった。朱里が思わず問いかけようとすると、彼の指先が唇に触れた。優しげな仕草の中に、何も言わせないという意志を感じて、朱里はそのまま動けなくなってしまう。
まるで壊れ物を扱うように、遥の手が朱里の頬に触れた。
「君が全てを取り戻しても、――どんな結末を迎えても、私は君の往く途を護る。忘れないで欲しい」
「私は――」
朱里の言葉を封じるように、柔らかな衝撃があった。唇に感じる熱。こんなふうに触れ合っても、遥の想いは決して朱里の気持ちに寄り添わない。朱里の想いを、自分に縛り付けようとはしてくれないのだ。
それがどうしようもなく哀しくて、胸が詰まる。呼吸が止まりそうなほど強く抱きしめられても、熱を帯びるほど口づけを交わしても、想いは満たされない。
届かない。
決して、彼に届いてはならないのだと思い知らされる。
自分が相称の翼である限り。
彼の名で禁術が解かれても、それは彼を愛した証にはならないのだろう。
どんな真実が形になっても、きっと遥は受け入れてはくれない。
全てが黄帝への想いとして繋がれてしまう。
足掻くように唇を重ねてみても、想いは刻まれない。ただ涙の味に染められる。
「朱里」
遥が腕の力を緩めた。耳元で囁かれた言葉が吐息になって触れる。
「――――……」
輪郭になったのは、言葉だったのか、旋律だったのか。
哀しみともどかしさに侵された胸の内にも、心地よく沁み込んでいく。
これが。
――真実の名。
彼に与えられていたもの。
こんなにも美しい輪郭を忘れていた自分が信じられなくなるほどに。
言葉にならない激情に襲われる。
朱里は耐え切れずに、示された輪郭をうわ言のように繰り返す。
それは言葉になっていたのかさえ判らない。
目の前の情景が圧倒的な光に呑まれる。沁み込んでいった何かに抱かれて、何も見えない。
ただ一面が眩い世界で、規則正しい胎動が聞こえる。
柔らかな殻を脱ぎ捨てる感覚。
(ああ、夢が……)
朱里は目を閉じても失われることのない光景に眩暈を覚えながら、感じていた。
(――夢が醒める)
何も知らずにいられた、幸せなひととき。
閉じた世界で、ただ彼への想いだけを守っていられた日々。
全てが終わる。
禁術は解かれ、封印は費えた。
開かれた扉の向こう側で、届かない想いの行方が明らかになる。
失われた真実が蘇る。
夢のようなひとときは、今、終わりを告げた。




