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シンメトリーの翼 〜天帝異聞奇譚〜  作者: 長月京子
第三話 失われた真実

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第十三章:3 高鳴る警鐘

 朱里(あかり)は水差しとグラスを盆に乗せて、出来る限りの早足で廊下を進む。とたとたと踏み鳴らすスリッパの音が、(はるか)の部屋の前で唐突に止んだ。


「先生っ」


 開け放たれた扉から室内を見た途端、朱里は思わず声を上げてしまう。遥は寝台に上体を起こしたまま、手身近な窓を開けて夜空を眺めていた。室内の温度よりも低い風の流れが、朱里にもひやりと触れる。


「ただでさえ大怪我をしているのに、窓なんか開けていたら風邪をひきますよ」


 素早く寝台に駆け寄りながら、朱里は彼らがこちらの世界の病気にかかるのだろうかと考え直すが、身震いするほどの真夜中の冷え込みを感じて、あえて意味のなさそうな台詞を野放しにする。怪我をした体を労わってほしいという思いが伝われば、それでいい。


 遥は朱里を振り返ってから、再び窓の外へ視線を移した。朱里もつられて遥の視線の先を追う。

 薄雲を纏った月が曖昧に輝いている。それでも夜空ではひときわ存在を主張していて、おぼろげな燐光が綺麗だった。


「月が珍しいですか」


 水差しから白湯(さゆ)をグラスに注ぎながら、朱里は何気なく訊いた。遥は窓を閉めながらわずかに首を振る。


「いや、そんなことはない。これまでにも目にする機会はあったから」


 カーテンに手をかけて完全に夜空を閉ざすと、彼は朱里の手から白湯の入ったグラスを受け取る。そのまま口に含むと、渇きが癒されたのか深く息をついた。


「怪我、本当に大丈夫なんですか」


 この短時間で目覚めたことを考えれば愚問だと思えるが、それでも訊かずにはいられない。何の前触れもなく遥が一階に姿を見せた時、朱里は心臓が止まりそうなほど驚いてしまった。話し相手をしてくれていた彼方達の反応を思い返してみても、やはり彼の持つ回復力は驚異的なのだろう。そしておそらく、彼は朱里に危惧を抱かせないために、無理をしているに違いない。


 朱里は寝台から起き上がって来た遥を、ものすごい剣幕で再び寝台へと追い返した。自分でも恥ずかしいくらい必死だったような気がする。遥が目覚めたことを確認すると、(そう)がすぐに帰宅することを告げて、あっさりと帰途についてしまった。


 彼方(かなた)達が帰宅してしまうと、適度に賑やかだった家の中が、途端に静かになった。静寂は遥の怪我に障らないため歓迎できるが、今まで在った人の気配が途切れると、どこか物足りなく感じてしまう。麟華(りんか)が目覚める気配はなく、麒一(きいち)もまだ帰宅していない。


 双子の兄と姉についても気になるが、朱里は遥と二人きりであることを思い出すと、途端に緊張が高まっていくのを感じた。遥はそんな朱里の様子を心配していると受け止めたのか、怪我をした胸元を軽く押さえて見せる。


「私の受けた傷はもう塞がっている。この程度ではかすり傷だ。何も心配しなくていい」


「そう、ですか」


 二人きりでいる戸惑いと共に、朱里の胸の内に張り詰めていくものが在る。

 心の内を占めていく、重い気持ち。

 逃げずに向かい合わなければならない事実が、(かげ)りとなって深さを増す。

 封印された真実を蘇らせる鍵。どこかで打ち鳴らされている警鐘が、不安を煽る。

 恐れが肥大していく。

 胸を占める遥への想いだけが、今は支えだった。


「あの、先生」


 決意を固めても、呼びかけた声は戸惑いがちに響いた。遥の真っ黒に変貌した瞳が、初めて真正面から朱里を捉える。艶やかな闇色が、それだけで彼の正体を露にした。癖のある頭髪も黒く染められ、光線によって描かれる影色の濃淡だけが見分けられる。どんな鮮やかな色彩も、彼の(まと)う純粋な漆黒には太刀打ちできない。


 朱里は吸い込まれるように遥の容姿に魅入ってしまう。

 夢の中に現れた麗人。懐かしく、切なく、愛しい顔貌(かおかたち)

 それだけで胸が詰まる。


闇呪(あんじゅ)(きみ)――」


 思わず声に出して呟いてしまう。驚いたように目を(みは)る遥に気付いて、朱里ははっと口元を両手で押さえた。


「朱里?」


「な、何でもありません」


 うろたえる朱里の前で、何かに気付いたように遥の表情が動いた。彼の視界にも、その鮮烈な頭髪の闇が映ったのだろう。指先がゆっくりと変貌を遂げた前髪に触れる。遥は狼狽する様子もなく、そのまま落ちかかった前髪を払うように無造作に黒髪を掻きあげた。

 どこか自身を蔑むような暗い眼差しで、朱里を見つめる。


「これが私の本性(ほんしょう)だ。……恐ろしいだろう?」


 唇を噛んだまま、朱里はすぐに顔を左右に振る。


「恐ろしくなんてありません。私だって、先生と同じ黒髪です。それに、……その、私はただ、とても、……綺麗で――」


 見惚れてしまっただけですと打ち明けた語尾は、呟きのように小さくなってしまう。彼の自身に対する偏見を否定したかったのは事実だが、素直に思いを語ってしまうと場違いな感想でしかない。恥ずかしさで頬が染まるのを感じて俯くと、遥が小さく笑うのが聞こえた。

 上目遣いに彼を眺めながら、朱里は笑ってくれた遥にそっと安堵する。


「先生、本当に体は何ともないんですか。貫かれた処はもちろんだけど、そこから体中に何かが流れ込んで、とても苦しそうでした」


「たしかに、体が引き裂かれるのかと思った。どういうことなのか良く判らないが、おそらく私に与えられた――」


 遥はそこで言葉を呑み込んだ。


「いや、何でもない」


 朱里には彼が呑み込んだ言葉が判ってしまう。たまらなくなって、思わず口にする。


「先生は悪くありません、絶対に」


 彼は自身に与えられた罰であると考えたに違いない。

 罰を与えられるようなことなど、何一つしていないのに。

 朱里は身を乗り出すようにして、寝台に上体を起こしている遥に近づいた。彼の組み合わせた両手に自分の手を重ねて、必死に言い募る。


「先生が(わざわい)だなんて、私は信じません」


「朱里、それは」


「先生や麟華(りんか)が傷つけられるのを見るのは、もう嫌です。私は先生の力になりたい。きっと、私にも出来ることがある筈です、判ったんです」


 朱里は彼に添えた自分の手に力を込めた。

 同時に胸の底で打ち鳴らされている警鐘が、激しくなっていく。

 これ以上先に進んではいけないという警告。

 封印を暴こうとする自分を止める何か。恐ろしいほどの戦慄に襲われている。


(――恐い)


 恐れに呑まれそうになりながら、それでも、もう決意は揺るがない。

 自分を護るために遥が、あるいは麟華が、大切な誰かが傷つくのを黙ってみていることは出来ない。

 この心に築かれた扉の向こう側に、もし耐え難い真実が眠っているのだとしても。

 例えそれが、彼の傍にいられなくなる事情を孕んでいるのだとしても。


 想いは変わらない。

 変えられない。彼を愛しているという気持ち。

 傷つかないで欲しいと願う気持ち。

 臆する心を奮い立たせて、朱里は封印された扉の鍵を欲した。


「私は自分に呪いをかけた。天落(てんらく)(ほう)という禁術で全てを封印した。そうですよね」


 遥は何も言わず、ただわずかに頷いて見せた。朱里は続ける。


朱桜(すおう)が、――私が愛していたのは、闇呪(あんじゅ)(きみ)……先生だけです」


 言葉を選ぶかのように、遥に一呼吸の沈黙があった。まるで朱里の顔を見ていることが辛いと言いたげに、眼差(まなざ)しが伏せられる。低い声が囁くように答えた。


「君がそう教えてくれた。だから、――信じている」


「先生は……」


 朱里には彼が心から信じてはいないことが判ってしまう。これまでも、彼はずっといつか蘇る朱桜の想いを護ろうとしていた。黄帝への想いを。

 朱里の想いに答えてくれても、それでも彼には胸底で激しく燻っている罪悪があるのだ。このままでは、決して届かない想い。


 やりきれない思いが込み上げてくる。高鳴る警鐘に呑み込まれそうになりながら、それでも、捨てることの出来ない真実の想い。

 幾重にも張り巡らされた戒めが、行く手を阻もうとしているのを感じる。胸の底から響き渡る警鐘が消えない。


 伝えてはいけない想い。

 開けてはいけない扉。

 相称(そうしょう)(つばさ)。その立場に架せられた過大な役割。

 導かれる結末は、決して望みに添わないだろう。

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