第十二章:3 異世界の掟 1
紅茶の入ったカップを持ち上げた手が震えている。朱里は自身の動揺を悟られないように、すぐにカップを元の位置に戻した。震えていることをごまかすために、何気なく手を組んで力を込める。大袈裟にではなく、そっと息を吐き出した。
いつもの見慣れたリビングルームにいても、落ち着かない。視線を巡らせると、そのまま続いている和室の模様も視界に入ってくる。朱里には彼方達が自宅のソファで寛いでいることが、それだけで不自然に映る。よく知っている室内であるはずなのに、まるで異世界に誘われたような気がするのだ。
語り続ける奏の穏やかな声が、室内を低い音色で満たすように響いている。はじめは心地よく感じていたのに、話が進むに連れて息苦しさが増していった。
「遥には、そのような嫌疑がかかっています。だから、彼は追われていると云っても過言ではないでしょう」
奏は包み隠さず、自分たちの世界で起きている事実を教えてくれた。こちらとは異なる世界の在り方や仕組み。はじめは御伽噺を聞くように耳を傾けていたが、彼らの世界が明かされるにつれて、朱里は余裕を失って行くことを自覚していた。突きつけられた事実は、朱里の知っている常識とはかけ離れた形をしている。
にわかには信じがたい内容。
けれど。
だからこそ、彼らは相称の翼を血眼になって捜すのだ。
朱里はうまく考えがまとまらない。
動揺を隠そうとしてもうまくいかなかった。冴えない朱里の顔色をどのように受け止めたのか、彼方が慰めるように口を開く。
「だけどね、委員長。奏の語ったことは、全てが真実ではないと思うんだ。だって、副担任は世界を滅ぼす気はないって言っていたし。黄帝の真意もよく判らないままで。なんていうか、うまく言えないけどさ。どこかで何かを間違えているような気がするんだよね」
「私も彼に会ってそう感じました。これまで語られて来た人物像からは想像もつかないほど、――黒沢先生は優しいと思います」
迷いのない声で雪が彼方に同調した。朱里はそっと雪を仰ぐ。彼女はカップを両手で包み込むように持ち上げて、にこりと可憐に笑った。
「黒沢先生は、朱里さんに上着を羽織らせてくれたでしょう? 自然に、何気なく気付いたという感じでした。天界でもそんなふうに振る舞える殿方は少ないと思います」
どこか羨ましそうに朱里を眺める雪の傍らで、奏が小さく笑う。
「なるほど。それで雪は私の行く末を見守ってみようと思えたのだね」
雪は照れ隠しのために舌を出してから、「そうです」と頷いた。
「恐ろしい者であると語られてきた筈なのに、事実は違いました。彼には人並みに気遣う思いがあるのだと感じられて、兄様の決意も間違えていないのではないかと、そう思えて少し安堵しました」
「ていうか、副担任はその何気ない行動で、単に雪の乙女心を鷲掴みにしたってことだよね」
彼方が恨めしそうに雪を見ると、彼女は頬を染めて視線を逸らした。朱里は目の前の和やかなやりとりで、辛うじて真っ黒な不安を遠ざけていられた。再び小さく息を吐く。組み合わせた手から力を抜くと、震えが蘇った。
彼方達は懸命に遥のことを悪役ではないと示してくれる。彼らが心からそう感じているのかは判らないが、遥を好きだと打ち明けた朱里を労わってくれていることは明らかだった。
朱里は突きつけられた重い事実に耐えるように、奥歯を噛み締める。
自分を動揺させている事実は、明かされた遥の立場だけではない。彼の立場は、これまでの経緯からそれなりに理解していた。
もっとずっと、激しく襲い掛かってくる事実。
相称の翼。
黄帝の寵愛を受ける黄后。
おかしいとは感じていたのだ。寵姫一人を奪い返すために、彼らの世界に君臨する絶大な帝は禁忌を犯し、犠牲を払ってまで異界へ追手を差し向けてきた。他の国を従えるほどの権力を持つ主が、寵姫一人に振り回されるほど愚かなのだろうかと。
腑に落ちない成り行き。異世界の事情だからと、朱里は気付かぬふりをしていたのだ。
内に燻る違和感から目を背けていた。
黄帝を愛してはいなかった朱桜。自身を想わぬ行方知らずの女のことを、黄帝がいつまでも追い続けるはずがない。
異世界の掟を知らされていなかった朱里は、そんな希望を抱いていた。
封印された扉の向こう側は、依然として判らない。
失われた記憶。得体の知れない罪悪感だけが募る日々。
鳴り止まぬ警鐘に耳を塞ぎ、目を逸らし続けて。
(私は、――朱桜は逃避しているのかもしれない)
垣間見た異世界の光景を辿りながら。
朱里はいつの日か、黄后と言う立場が白紙に戻る日が訪れることを望んでいた。
闇呪と朱桜。夢の中の二人が互いに寄り添える輝いた未来。
過去の全てを封印して、朱桜は――朱里は夢を見ていたに違いない。
どこかで、幸せな未来が訪れることを期待していたのだ。
真実を失ったまま繰り広げられていた、ままごとのような日常。
愚かな夢。
相称の翼は、文字通り黄帝の片翼として世界を導く。
黄帝の隣に並び、天帝の御世を築く立場。
世界の繁栄を支える者。
与えられた立場に架せられた、恐ろしいほど過大な役割。
その責務を放棄すれば、やがて世界は破滅する。
まるで神のように、ただ一人の人間が世界の命運を握るという異世界の真実。
(そんなの、ありえないよ)
朱里は強く否定したが、奥底で燻る罪の意識が胸を焦がす。これまでにも感じた、言いようのない罪悪感。得体の知れない感情の全てが、符号を揃える。
組み合わせた掌がさらに震えを増した。じっとりと冷たい汗が滲む。
(ありえない――)
胸の内で反芻する拒絶は、ただ虚しく空回る。
「朱里さん、大丈夫?」
いつのまにか雪が朱里を覗き込むように、あどけない顔を寄せていた。朱里ははっと顔を上げてむりやり笑顔を取り繕う。
「委員長は今まで通りで良いと思うよ」
彼方が歩み寄ってきて、雪の隣から朱里の顔を覗きこむ。
「今までどおり、副担任を信じて助けてあげればいいと思う。彼にとっては、素直に自分を慕ってくれる委員長の存在が、それだけで助けになっていると思うんだ」
朱里はそうではないと思ったが、彼らには語ることの出来ない成り行きだと口を閉ざした。彼の助けになどなれない。彼を窮地へ追い詰めているのは、自分であるのかもしれないのだ。朱里は自分を励まそうとする彼方の気持ちだけを受け取って、ただ頷いた。
「あの、白川さん」
朱里は沈んだ気持ちの中から、辛うじて一つの決意を掬い取る。どんな事実に阻まれようとも、譲れない決意。
これ以上、遥や麟華を傷つけることだけは避けたいのだ。
もう逃げてはいられない。目を逸らしてはいけない。
どんな恐れよりも、自分は彼の未来を望む。きっと全てを封印する前も、今も。
想いは一つだけ。
彼を愛している。
「さっき呪いのことを話していましたよね」
奏は興味を引かれたように、真っ直ぐに朱里を見つめた。朱里はどんなふうに問いかけるべきかと逡巡する。問いかけておきながら、再び不自然に黙りこんでしまうと、奏がまるで背中を押すように他愛ないことを言った。
「お嬢さん、私のことも奏と気軽に呼んで下さい」
「あ、そうですね。雪さんも白川さんになるし、ややこしいですね。ごめんなさい」
「謝る必要はありませんが……」
奏は苦笑しながら、手元のカップを口に運んだ。すっかり冷めてしまった紅茶を口に含んで、寛いだ表情を見せる。朱里は心の中で深呼吸をした。遥や双子が語っていたことを辿りながら、自身の素性を明かさないように努める。
「奏さん。さっき、呪いはそれをかけた者にしか解くことができないって、そう云っていましたよね」
「ええ」
白いティーカップを手にしたまま、彼は真っ直ぐに朱里を見つめる。灰褐色の瞳が持つ不可思議な澄明さに戸惑いながら、朱里は続けた。
「じゃあ、もし自分に呪いをかけた場合は、自分で解くことができるということですか」
奏の表情が微妙に揺れる。彼は一瞬目を伏せてから、喰い入るように朱里を見た。
「私達が自身に呪いをかけることは、まず有り得ません。己の身が無事ではすまないからです。他者に向けた呪いでも、必ず目的を果たすとは限らない。呪いとは、そのような曖昧な力です」
「――そうですか」
朱里にはうまく聞き出す術が見つけられない。深追いをして、自身の正体がばれてしまうことだけは避けたかった。
はじめに遥が語っていたのだ。朱里が自身に強い呪いをかけてここに在るということ。
それを裏付けるように、双子が教えてくれた。闇呪の伴侶である朱桜は、禁術を犯して自身を封印した。
その封印を解くことが出来るのは、黄帝ただ一人。
封印の解除は、今の状況では絶望的だと言える。禁術が呪いの類であるのなら、もしかすると自身で解くことができるのかもしれない。朱里はそんな期待を抱いたが、どうやら的外れのようだった。
けれど、いつまでもこのままではいられない。遥と双子に負担がかかることは、既に痛いほど突きつけられている。何も知らずにのうのうと過ごすことは、自分自身が許せないのだ。朱里は封印に関する手掛かりを諦めきれない。自分で解除できる術がないのなら、その手段を持つ黄帝のことを問うしかない。
「奏さん達の世界では、黄帝は全能の神のような存在なんですか」
「全能の神ですか。たしかに言われてみれば、そうなのかもしれません」
奏の声音は、そんなふうに考えたことがなかったという色を帯びていた。朱里は彼らが王族であることを思い出して、黄帝を身近な人間として捉えていたのかもしれないと考え直す。彼らにとって身近な存在ならば、封印について糸口を掴める可能性が出てくる。
「奏さんにとっては、身近な存在だったとか?」
「そんなことはありません。神だと謳っても良いほど遠い存在です」
朱里は期待が外れたと、わずかに肩を落とした。彼方が追い討ちのように説明してくれる。
「僕達には、謁見するのも一筋縄じゃいかないよ。黄帝は招いた者しか歓迎しないから、無理矢理訪れると魂魄を失うことだってある」
「会いに行くだけで?」
朱里は仰天したが、彼方と雪は当たり前のように頷いた。朱里は自力で封印を解くことが至難の技であることを思い知る。朱里が恐ろしい事実に竦んでいると、奏が慰めるように口を開いた。
「昔はそうではありませんでした。金域への道は常に開かれていて、来る者を拒みませんでした。これほど道が閉ざされるようになったのは、現黄帝の御世が始まって、まもなくしてからでしょうか。世の安定が崩れ始めた頃からです」




