第十二章:1 衝撃の痕
「本当に、ありがとうございました」
さすがに遥と麟華を一人で担ぐことが出来ず、朱里は彼方と奏の手を借りた。おかげで二人を自宅まで連れて帰ることは問題なく果たせた。それでも状況の整理がつかないまま、朱里は邸内を駆け回ってお湯をはった洗面器とタオルを用意する。遥の部屋へ慌しく揃えた物を持って入ると、既に血に染まった遥の上着が、取り替えられていることに気付く。
朱里はようやく、奏と彼方に礼を述べる余裕が生まれた。彼らがいなければ、きっと正気を保ってはいられなかっただろう。素直にそう思えて、深く頭を下げた。
「いいよ、委員長。困ったときは助け合わなくちゃ」
屈託のない笑顔で彼方がいつものように明るい声を出す。奏も頷きながら、遥が横たわる寝台へと朱里を促した。
「見てください、彼の傷痕」
朱里がゆっくりと歩み寄ると、奏が何気なく遥が身につけている上着の胸元を開いた。
「――っ」
朱里は生々しい傷痕を見せられて、思わず手にしていた物を落としそうになる。彼方が支えてくれなければ、室内にお湯を撒き散らす所だった。
「ちょっと、奏。委員長に見せる必要はないでしょ」
「少し刺激が強すぎましたか。……だけど、お嬢さん。彼の傷が回復してゆくのが判るでしょう?」
朱里はもう一度、おそるおそる傷痕を眺める。みぞおちの辺りに目を逸らしたくなるような傷痕があった。貫通するほどの大怪我であったのに、既に溢れ出る鮮血はなかった。痛々しいことは変わらないが、確かに見ている間にも、引き裂かれた皮膚に薄い皮膜がはっていくのがわかる。
ありえない回復力を見せられて、朱里は驚いたように奏を仰いだ。
「貫かれたのは心臓より低い位置です。もし私達が同じような傷を負ったとしても、致命傷にはならなかったでしょう」
「じゃあ、この回復力は先生に限ったことではないんですか」
「そうですね。私達は自身の力を以って、ある程度の傷を塞ぐことができます。天宮のお嬢さんと比較するならば、私達の持つ回復力は桁外れかもしれません。とは言え、さすがに貫通するほどの大怪我ならば、一筋縄ではいかないでしょうが」
奏が横たわる遥に苦笑を向けて、露になっていた胸元を閉じた。彼方が歩み寄ってきて、朱里の肩を叩く。
「僕達でも致命傷にならない怪我だから、副担任にとってはかすり傷だよ。委員長も彼が不死身に近いことは知っているよね。彼の回復力は僕達と比べても桁外れだから、すぐに目を覚ますよ」
「うん、ありがとう」
朱里がようやく泣き腫らした目で笑うと、彼方も安堵したように微笑む。発作のように襲った絶望的な気持ちは、彼らのおかげで緩んでいる。後には絶望の抜け殻である不安だけが、胸の底に棘となって突き刺さっていた。
どうしてこんな事件が起きるのか。憤る思いとは裏腹に、朱里は答えが自分の中に在るような気がしていた。胸に鉛のような不安が詰まっている。明かされていない真実に対する恐れが、止めようもなく広がってしまう。
相称の翼。
全ては、その立場に繋がって行くのではないか。きっと忘れてしまった自分に、一番罪がある。遥も双子も決して明かしてくれない、罪深い真実があるのかもしれない。そう思えて仕方がなかった。
朱里は奏や彼方に全てを打ち明ければ、真実に歩み寄れるのかもしれないと考えてしまう。けれど、それは遥や双子との約束を破ることになるのだと何とか呑みこんだ。
自身の素性は、誰にも明かしてはいけない。
麒一と麟華に強く言い聞かせられたことだった。
朱里が夢で見た光景を語り、双子が隠すことなく事情を打ち明けてくれた時、強く刻まれた約束。彼らは理由を口にはしなかったが、それは遥を追い詰める事実なのかもしれない。遥を護る双子が語るのだから、そういうことだろう。
朱里は寝台の傍らに洗面器を置いて、遥を覗き込むように膝をついた。湯にタオルを浸し、そっと彼の頬を拭う。寝台の白さが、余計に黒髪の色合いを深く見せた。朱里は真っ黒に変色した遥の頭髪を見つめてしまう。細い髪質は変わらないが、柔らかな茶髪は目の覚めるような艶やかな黒髪に変化していた。朱里は思わず指先に絡めて確かめてしまう。
込み上げてくる、不自然な感情。
懐かしい。
目を逸らそうとしても、既視感に襲われてしまう。夢の中の光景が、まるで目の前に現れたかのように。
闇呪の君。
疑いようもなく、隠しようもなく、朱里の脳裏にある光景と重なり合う。
目を奪われるほどの、鮮明な闇色。
麟華の角に貫かれ、彼の体中に染み込んでいった何か。
禍々しい呪い。
それは無理矢理彼の正体を暴いたのかもしれない。
黒い毒。
悲痛な遥の絶叫が、朱里の耳の裏に残っている。




