第十一章:4 黒麒麟(くろきりん)の暴走
朱里の冷たい手が触れると、遥がはっとしたようにこちらを向いた。外灯の作り出す頼りない光の中で目が合うと、朱里は咄嗟に掌を引っ込めた。何をしているのだろうと、顔から火が出る思いで俯く。彼の暗い表情を見ているのがやりきれなくて、思わず手を伸ばしてしまったのだ。
まともに遥を見上げることが出来ず、所在無く視線を彷徨わせる。視界の端に、いつのまにか見失いそうな位に遠ざかっている彼方達の影があった。
遥が帰宅を促すように、とんと朱里の背中を叩いた。
「外は寒いから、戻ろう」
「―――っ」
朱里は「はい」と答えようとしたが、それは声にならなかった。突然、顔を背けたくなるほどの激しい風が巻き起こり、朱里は思わず目を閉じる。
「麟華っ?」
よく通る遥の声が、聞きなれた名を叫んだ。張り詰めた響きを帯びている。朱里が目を開けると、目の前が真っ黒な帳で塞がっていた。夜の闇よりもずっと深い、吸い込まれそうな漆黒。一体何が起きたのか判らず、朱里は反応が遅れる。身動き出来ずにいると、横から強く体を引き寄せる力があった。声をあげるまもなく視界が流れる。強引な動きに耐え切れず転倒すると、まるで計算したかのように倒れこむ身体を支える腕があった。
遥の左腕に抱きとめられながら、朱里はそれを見上げた。
夜の闇よりも深い、吸い込まれそうな暗黒を纏った影。
しなやかな前足が、朱里の頭上でもがくように空を切る。馬体を思わせる得体の知れない影が、こちらに覆いかぶさる近さで、立ち上がっていた。
「――――――っ……」
振り下ろされる前足の迫力に、朱里は高く絶叫する。突如現れた影色から、うなるような低い咆哮があった。遥に引き寄せられると同時に、朱里の目の前をえぐるように、ひゅっと鋭い風がよぎる。
「朱里、少しはなれて」
遥の余裕のない声に頷くが、驚愕と恐ろしさで足に力が入らない。がくがくと震えが全身を巡っていく。思うように身動きできない朱里を、遥が素早く抱き上げ、振り下ろされる前足を避けるように飛びのく。
無造作に暴れる、しなやかな黒い影。
影色の獣が振り下ろした前足は、触れそうなほどの至近距離で地を踏みしめている。頭上に踵落としを喰らっていれば、間違いなく絶命するだろう。朱里は恐ろしさに引きつりながら、這うようにして後退するのが精一杯だった。
ようやく一際深い闇色の全貌を捉えると、見たことのない輪郭に言葉を失ってしまう。それは馬よりは小柄な体躯だが、鹿よりは大きい。四肢はしなやかに美しく、鬣が風に煽られた黒い炎のようにゆらゆらと蠢いている。小さな額には、一角獣のような長い角があった。けれど、本来獣の美しい象徴となるだろう角には、体躯の放つ吸い込まれそうな闇色の輝きはなく、ぞっとするほど艶がない。まるで呪われた古木のような不気味さで、額からそそり立っている。
不可思議な体躯を持つ獣が、朱里の目の前で苦しげにのたうつ。前足には蹄がなく、爪のような鋭い輪郭が、影色のまま視界に飛び込んできた。
前足が勢い良く地につくと、舗装された道を削るかのようにざりざりと鈍い音が響く。後ろ足が苦痛の限界を示すかのように、更に強く地面を叩いた。
「遥、彼女は私が」
頭上で新たな声が聞こえる。朱里が見上げる間もなく、身体が強い力に抱え上げられる。
「奏、こっち」
聞きなれた彼方の声がした方向へ、ふわりと跳躍したのが判る。朱里は自分を抱き上げて退避しているのが、白川奏であることを確かめた。おそらく朱里の悲鳴を聞いて、戻ってきたのだろう。駆けつけてくれた事に感謝しながらも、朱里は地面に降ろされると、すぐに遥を振り返った。
黒い獣は遥を刺し貫こうとするかのように、不気味な角を振りかざしている。
「先生っ」
朱里は目の前の光景が正視できず、思わず目を閉じた。キンと鉄琴を打ち鳴らすかのような音が響く。朱里が恐る恐る目を開けると、遥が漆黒の刀剣を構えて獣の角を受け止めていた。凄まじい力と対峙しながら、遥が信じられないことを告げる。
「麟華っ、落ち着け。どうしたんだ。一体、何があった?」
朱里は一瞬、状況に取り残されてしまう。
「え?今――」
麟華と呼んだ気がする。聞き間違いかと思っていると、それを裏づけるように、遥が再び叫んだ。
「私の声が聞こえないか、麟華っ」
朱里は目を見開いて、目の前で長い角を振りかざす獣を凝視した。影色の四肢はしなやかで、虎のような獰猛さは感じられない。体毛は黒光りするほどの艶がある。大人しく佇んでいるだけならば、美しい生き物だと言えるだろう。
けれど、麟華の面影を感じることが出来ない。目の前でのたうつように暴れる影は獣の形をしているのだ。いや、輪郭が変貌しているだけなら、朱里はこれほど衝撃を受けなかった。それが麟華の本性だと言うのなら、きっと首筋に抱きついて頬を寄せることも厭わない。信じられないのは、自身に振り下ろされた前足や、遥を貫こうとする長い角。
もしその獣が麟華であると言うのなら、彼女が何ふり構わず攻撃する姿が信じられないのだ。遥や自分を思いやってくれた心が跡形もなく失われている。朱里は突きつけられた事実に心が追いつかない。小さく「嘘だ」と呟いてしまう。
「そんなの嘘だよ。だって、どうして麟華が先生を傷つけようとするの?」
朱里の呟きが聞こえたのか、彼方の声が答える。
「委員長の言うとおりだよ。こんなの有り得ない、おかしいよ。守護が主を襲うなんて聞いたことがない。奏、これは一体どういうことなの?」
朱里の背後で、奏も固唾を呑むようにして目の前の状況を見つめていた。彼方に視線を映すことなく、ただ眉を寄せた。
「あれは、……呪い、でしょうか」
「呪い?」
背後で聞こえた奏の呟きに、朱里は思わず問い返してしまう。異世界にもそのような手段や方法があるのかと思ったが、のたうつ獣はたしかに痛々しいほど悲愴に見えた。確かにそういった類の禍々しさに囚われているように見える。朱里は目の前の拮抗した状態から視線を逸らさず、奏に話しかける。
「それは、鬼とか呼ばれている物とは、また別の力なんですか」
「天宮のお嬢さんは、鬼をご存知ですか」
「先生や彼方が、教えてくれたので……」
答えながらも、朱里は遥から注意を逸らすことができない。彼が力で押されているのは、明らかだった。黒い獣――自身の守護である麟華と戦うことは、遥にはできないだろう。決して剣を振り降ろすことは出来ない。このままでは獣の額からそそり立つ角に刺し貫かれるのも時間の問題である。
「何か、先生を手助けする方法はないんですか。このままじゃ、先生が……」
朱里は胸が張り裂けそうな思いで暴走する麟華と対峙している遥を見る。彼方も耐え切れなくなったのか、遥に向かって叫んだ。
「副担任っ、僕も応戦しようか」
協力者があれば暴れる麟華を取り押さえることが出来るかもしれない。朱里は一瞬期待したが、それはすぐに打ち砕かれた。
「誰も手を出すなっ、魂魄を失いたいか」
踏み出そうとしていた彼方が、遥の怒声を聞いて動きを止めた。同時に奏と雪が、彼方の腕を掴んで引き止めた。
「私達に手助けが出来る状況ではありません。下手に動けば彼の邪魔をするだけです」
兄の傍らで、雪も泣き出しそうな眼差しで訴えていた。彼方が肩を竦める。朱里は何か打開策が見出せないかと、目の前で交わされる角と剣を視線で追いかけた。
「あれは、どう見ても副担任を狙っているよ。霊獣である黒麒麟を呪うなんて、一体どれほどの思いなんだ」
「呪いを解く方法はないの?」
朱里の問いかけには、わずかな沈黙があった。麟華の咆哮に重なるように奏が答えた。




