第十一章:2 異世界の者達
不自然に輝いた光源までの距離感を掴めないまま走り出すと、朱里はすぐに外灯に照らされた人影を見つけた。自宅へと繋がる道には、滅多に人通りがない。まるで人目を憚るように、朱里達の住まいは奥まった突き当たりに建てられている。朱里は時折、短い帰路を辿りながら、隠れ家のようだと感じることがあった。
いつも人影のない光景に、馴染まない人影が浮かび上がっている。朱里は外灯に照らされた影の一つを見分けた。
「先生っ」
胸を支配している不安に突き動かされて、思わず切羽詰った声が出てしまう。朱里の声を聞いて、遥が弾かれたようにこちらを振り返った。
「朱里?」
踏み出そうとした遥の前に駆け寄って、朱里は肩で息をしながら彼を仰いだ。
「どうしたんだ」
気遣うような眼差しと出会って、朱里は不安で張り詰めていたものが緩む。ほっとすると、家を飛び出した自分の焦りが不自然に感じられて、答えようとした言葉が詰まる。
「えと、あの――、さっき、この辺りで……」
朱里はベランダから見た眩しい輝きの片鱗がないかと、咄嗟に辺りを見回した。闇に包まれた夜道の中に、外灯の反射ではない白い輝きを見つける。朱里はぎくりと動きを止めて、その輝きを手にする人影を見つめた。
仄かに燐光を放ち、男の両手に掲げられた刀剣が白く輝いている。
朱里は急激に高まっていく緊張で、掌が汗ばんでくる。暗がりに沈んでいても、目の前に佇む人影の馴染まない髪色を見分けることが出来た。銀色の美しい頭髪が、闇の中でぼんやりと浮かび上がっている。
記憶の中で、男の見慣れない容姿が恐ろしい体験と符合した。背筋に冷たいものが這い上がり、知らずに遥の腕を強く握り締めてしまう。
「先生、あの人……」
朱里は恐ろしさを隠しきれず、怯えるように遥に身を寄せる。
数日前、麟華に襲い掛かった人物の面影が、脳裏に描き出されていた。
目の前にひっそりと立ち尽くす男は、以前のように幾重にも纏った美しい衣装に飾られていない。髪も短く整えられていて、同年代の青年と同じ格好をしている。服装には異世界を思わせる要素がない。
けれど、見慣れない美しい容姿が、朱里の恐れを刺激する。
「朱里、彼は違う」
遥は朱里の恐れを正しく汲み取ったらしく、宥めるように肩に手を置いた。朱里は遥の片手に、闇よりも深い艶やかな漆黒の刀剣が握られていることに気付く。それが何を意味するのか掴めないまま、もう一度遥を仰いでから辺りに視線を映す。白く輝く刀剣を握る男の傍らから、じっと佇んでいた影がゆっくりと進み出てきた。
「委員長、僕だよ。わかる?――なにをそんなに恐がっているの?」
辺りの暗闇を払うように、陽気で闊達な声が響く。朱里は聞きなれた声と、闇の中でも翡翠のように輝く瞳を見て、小さく声をあげた。
「彼方、どうして、こんな処に?」
「うん、副担任を訪ねてきたんだけど」
答えながら、彼方は外灯が照らすわずかな光の輪へ入ってきた。隣には同年代の可憐な少女が寄り添っている。少女は朱里と同じ学院の制服を身に纏い、見たことのない灰褐色の瞳をしていた。背の中ほどまで伸ばしている癖のない直毛は綺麗な銀髪で、一目で異界の生まれであることが窺える。彼方とは国籍が異なるのか、彼の日焼けしたような褐色の肌とは対照的に、少女は色白だった。
少女のはっきりとした目元が、わずかに涙で濡れている。朱里の視線を感じたのか、彼女は目元を隠すように、白い手で涙を拭った。
朱里はもう目の前の光景に対して恐れを感じてはいなかったが、一体ここで何があったのかが気になった。
問いかけるように遥を見ると、彼は困ったように笑う。手にしていた漆黒の刀剣を一振りして、するりと虚空へ収めた。朱里の問いには答えず、両手で白色の刀剣を掲げ持ったまま静止している男へ目を向ける。
「白虹の皇子、いえ――、奏。あなたの目的は果たされたはずです。どうか、剣を収めてください」
「かしこまりました」
素直に頷いて、男は遥の指示に従う。白い輝きの長剣が、同じように空を掻いて姿を消した。遥は深く息を吐き出して、男に伝える。
「奏、私はきっと、あなたの期待には応えられない。あなたが真実の名を証として誓いを立てても、やはり私には心から信頼することが難しい。……その覚悟がどれほどのものなのか理解できるのに、それでも快諾できない。許してください」
遥の暗い眼差しが、彼の抱える戸惑いを現していた。男は気を悪くした様子もなく、微笑みながら頷いた。
「謝罪される理由など、どこにもありません。強引に証を示したのですから当然です。私は全て承知の上で、この手段を選択しました。私はこれから、我が君の信頼を得るために努力をしなければならないのです」
男は他愛ないことを語るように、知的な目元を緩める。成り行きが把握できない朱里にも、語られた言葉が歪みのない本心であると思えた。
「奏、私の事は――遥と、そう呼んでください。私に敬意を示す必要もない。私はあなたの主として立てるような者ではありません」
「……わかりました。あなたの重荷となることは、私の本意ではありません。――遥がそう言うのなら、その立場を受け入れます」
朱里は銀髪の男をじっと窺う。知的に整った顔は冷ややかに感じられたが、微笑みには酷薄さがない。恐れが拭われたことも一因となっているが、きっとそれだけではないだろう。麟華を襲った男より柔らかな印象を受けた。
朱里は傍らに立つ遥を仰ぐ。
「先生、この人は?」
すっかり落ち着きを取り戻して、朱里は男の素性を問う。遥を陥れようとする者ではなさそうだが、会話を聞いているだけでは、どのような関係なのか全く掴めない。
「彼は――」
遥はどう伝えるべきなのか言葉を探しているようだ。一呼吸の空白があった。
「彼は、古くからの友人」
「え? 先生のお友達……」
朱里が咄嗟に奏を振り返ると、彼はためらうこともなく頷いた。心なしか嬉しそうな微笑みを浮かべているのは、気のせいではないのかもしれない。
朱里はなぜか途轍もなく新鮮な言葉を聞いたような気がして、二人を交互に見比べてしまう。少しずつ明らかになって行く遥の立場は、全てを知ることのない朱里にすら孤高であることを垣間見せていたのだ。
けれど、悲愴な宿命を負いながらも、彼には異界に友人があった。
遥が孤独ではなかったのだと思える事実。
それは朱里の中に描かれていた、彼の救いのない立場を少しだけ覆してくれた気がした。
遥も改めて言葉にした関係に、自分で戸惑っているのかもしれない。そんなふうに示して良かったのかと、まるでためらっているかのように言葉が費えた。
遥の友人であると紹介された男は、ゆっくりと朱里の前へと進み出た。




