第十章:5 魂魄(いのち)を賭(と)しても悔いのない忠誠
「兄様っ」
彼方は雪の絶叫を聞いて、ようやくはっと我に返る。奏の振る舞いは、彼方の目にも遥を陥れる罠にしか映らない。遥にとっては尚更だろう。弁解の余地も猶予もありはしない。
「ふ、副担任っ、待って」
漆黒の刀剣が引き抜かれるのを見ながら、彼方が踏み出そうとした。この窮地に在っても、奏の横顔には笑みが浮かんでいる。彼方は全身が総毛立つのを感じた。
「(――我を剣を掲げる主に)」
恐れていた予感が、形になりつつある。あまりにも突然の宣言に、彼方は身動きすることを忘れてしまう。
魂魄を賭しても悔いのない主上に出会うこと。
奏は果たしたのだと、彼方は漠然と悟った。そして、今、形を刻もうとしている。
美しい声が信じられない法を謳う。
「(仁を以て真実の名を語る。我が忠誠は、この魂魄が尽きるまで、御身に捧ぐ――)」
祈りにも似た唄に導かれるように、白虹剣が輝きを増した。やがて誰もが正視できないほどの強い煌めきとなって辺りを呑みこんだ。
彼方は放たれた輝きに堪えきれず目を閉じる。腕をかざして眩しさをやり過ごした。夜の闇が戻るまで、どれほどの時間が在ったのか。
静寂を貫くすすり泣きが聞こえて、彼方は再び目を開いた。雪が傍らで懸命に涙を拭っていた。兄が踏み込んでいった世界に恐れを感じ、混乱しているに違いない。彼方はかける言葉が見つからず、すすり泣く雪の肩を慰めるように抱き寄せた。
辺りは何事もなかったかのように夜の闇を取り戻している。仄かな外灯が、破られることのない掟で結ばれた二人を照らし出す。
「皇子、――何という、愚かなことを」
遥の呟きが震えているのは、彼方の聞き違いではないだろう。闇の中で燐光を放つ白虹剣から、愕然としたまま遥が手を離す。悠闇剣は奏に振り下ろされることはなく、力なく下げられた彼の手の中に握られていた。あまりの出来事に、遥は半ば放心しているのかもしれない。奏がようやく膝をつく姿勢から、するりと立ち上がった。
躊躇いのない仕草で、真っ直ぐに遥と向かい合う。
「強引な真似をして申し訳ありません。ですが、私が真実の名を語ることを、あなたは決して許さなかったでしょう」
「当然です。皇子、あなたは思い違いをしておられる。私と共に在っても、彼女は蘇らない」
「それは、私がこれから見届けることです。あなたに真実の名を語ることは、私にとって遅すぎたくらいです。今まで迷っていた自分が恥ずかしい。それこそが愚かです」
「私には、あなたの望みが判らない」
遥の戸惑いは、彼方にも想像がつく。いずれ世の禍となる宿命。彼はその救いのない未来に、誰かを巻き込むことを恐れているのだ。
本来、仁を以って捧げる真実の名――忠誠は、主となる者が受け入れなければ成り立たない。一部始終を見ていた彼方は、奏の不意打ちのようなやり方が成功したことも信じられなかった。
遥はやりきれないという様子で、暗い眼差しを伏せる。奏は苦笑を浮かべながら、自身の思いを口にした。
「闇呪の君、初めてお会いした時、あなたは激昂する私を、その類稀な力で制することをしなかった。自身の剣を差し出し、最大の誠意を示された。白露はあなたにとっては、見たことも会ったこともない、ただの地界の娘でしかなかった筈です。なのに、そのような取るに足りぬ娘を救うためだけに、あなたは容易く剣を差し出しました」
「それは、私の我儘を貫くため、……単に私のやり切れない思いを晴らすためにしたことです。自身の思いに折り合いをつけるために、ただ夢中でしたことに過ぎません」
「――全てが自分のためだとしても、何かを貫くために全てを差し出すような真似は、誰にでも出来ることではありません」
奏の穏やかな声の内には、どこか揺ぎ無い響きが込められていた。彼方は気圧され、言葉を奪われてしまったかのように何も言えない。ただ見守ることしかできない。目の前で見せられた苛烈な決意に、心が震えたままだった。
いつもと変わらない奏の眼差し。何も違わないはずなのに、淡い灰褐色の瞳の奥には、たしかに燃え盛る白い炎が在った。白刃よりも、ずっと強い輝き。
真摯な面持ちで遥を見つめ、奏は強く訴える。
「そんなあなたが、――豊かな未来を望む。そう言うのです。私には疑う理由がありません。迷いは費え、心は決まりました」
奏は成し遂げたという、晴れやかな顔で笑う。
「私の希望はあなたの望みと共に在ります。あなたの望みは、いずれ必ず私の希望へと繋がって行くでしょう。そう信じられるのです。闇呪の君、……いいえ、我が君、どうかこの思いを受け入れて下さい」
奏が再びその場に膝をついて頭を垂れた。そのまま遥に向かって、白虹剣を差し出す。遥が固く目を閉じてから、覚悟を決めたかのように、深い色合いの眼差しで奏を捉えた。差し出された剣を手に取って掲げる。もう一方の手には、悠闇剣が握られていた。白い燐光と深い漆黒が、共に艶やかな残像を描きながら、空を滑る。
やがて二つの剣先が、音もなく奏の肩に触れた。
遥のよく通る声が、凛と闇を揺るがす。
「(――共に在ることを、許す)」
短い呟きだったが、それは奏にとってこの上もなく確かな証となるだろう。
彼方は知らずに眩しい者を眺めるかのように、眼差しを細めていた。
主上を得るという悦びとは裏腹に、必ずしも祝福されるとは限らない形。世の禍となる者に、忠誠を誓う。
恐ろしいほど厳しい途だと判っているのに、彼方は羨望を自覚する自分を無視できない。
並び立つ二人を見て、美しい光景だと感じてしまったのだ。
魂魄を賭しても悔いのない、真実の忠誠。
決然と心に抱く、自身の信じる道。
奏は――白虹の皇子は見つけ出し、そして果たしたのだ。
嗚咽する雪の肩を抱きながらも、彼方は胸の内が奮えるのを止めることができなかった。




