プロローグ:1 夢と現(ゆめとうつつ)
鬼が追いかけてくる。
彼らに捕まってはいけない。梢から漏れる淡い夜光が追手を照らし出す。人影の不自然な輪郭が、少しずつ露になった。
彼女は逃れるために、夢中で走っていた。あるかなしかの光に包まれた夜道には見覚えがあるはずなのに、ここがどこなのか判らない。迷路に入り込んだように、行く当てもなく走っている。
(どこへ行けば、いいの)
ふと過ぎる想い。掠めてゆく孤独。
考えないようにしても、絶望はじわじわと彼女の中を満たしてゆく。
彼女は振り返って追手を確かめた。
蠢く暗い影。
彼らは人ではない。ぞわぞわと密度を増していく暗黒。まるで呼び寄せられたかのように集まって、追いかけてくる。
鬼と成り果てたもの。
懸命に走っているのに、彼らとの距離は縮まっている。このままでは追いつかれてしまうだろう。
もっと早く走らなければ捕まってしまう。判っていても、既に息は上がっている。胸が張り裂けそうなくらいに苦しい。
足取りは重たくなる一方だ。
群れを成して追ってくる鬼は、呼吸をしているのかどうかも判らない。生気のない顔をしているのに、動きは敏捷だった。
彼らの眼差しは闇のように暗く、別世界を映しているようにも思えた。
手を伸ばせば届きそうな距離まで、気配が近づいている。
捕まってしまう。
彼女は恐ろしさに竦んで、目を閉じた。
誰かが、自分の腕をつかむのと同時だった。
「――っ!」
がくりと体が震えて、朱里は目覚めた。蒼い闇の中で、自分の鼓動が早鐘のように繰り返している。 暗がりに沈んでいるのは、見慣れた自分の部屋だった。
寝台に横たわったまま、幾度か深呼吸をする。動悸のやわらいだ胸に手を当てて、瞳を閉じた。
「はぁ」
自分を落ち着かせるために、朱里はわざと溜息をつく。大袈裟に寝返りを打ってから、ばさりと肌布団を蹴り上げた。
鬼に追われる夢。どうしてそんな夢を見てしまったのかは、心当たりがあった。
胸の内にあるのは、憂慮と恐れ。
「やっぱり、どう考えても嫌だ」
嫌すぎると胸の内で不平を呟きながら、朱里は再び「はぁ」と溜息をついた。
(どうして、私がこんなに頭を悩ませなきゃならないの)
事の発端を辿っていくと、恐れを上回る勢いで苛立ちが込み上げてきた。いったい誰がそんなことを言い出したのかと頭を抱えたくなる。
「ああー、嫌だ。やだやだ」
声に出すと、更に暗い気落ちに拍車がかかる。
朱里は人一倍怖がりであることを自覚している。学院の規則を破ってまで、恐ろしい計画を企てる同級生達の神経が信じられなかった。
そして朱里は、運悪く学級委員であり、同時に学院の理事長の娘だった。
「ありえない」
朱里は反対を訴え続けていたのだ。それでも学級内で盛り上がった計画は留まることを知らない。好奇心の塊と化した友人達を必死で諌め続けたが、徒労に終わった。
自分は絶対に参加しないと腹をくくっていたが、学級委員という肩書きから生まれる責任感なのか、単に友人達を案じてしまうのか、放っておけないのも事実だった。
(こんな自分が嫌だ)
朱里の気分はどこまでも重い。
枕を抱えてごろごろと寝返りを打っていると、室内を包む闇がほのかに薄明を含みはじめた。
もうすぐ夜が明けるのだろう。
同級生の好奇心。荒唐無稽な計画。
それは、学院に伝わる鬼の噂を確かめるというものだった。学院内に設けられた立ち入り禁止区域。夜中に敷地にもぐり込むだけでも、大した校則違反なのだ。
それに輪をかけて禁を犯す。立ち入りを禁じられた場所に踏み込むというのだ。
学院に棲む鬼の巣窟。そんな噂がある場所に夜中に忍び込むなんて、正気の沙汰とは思えない。朱里としては、ひたすら勘弁してほしかった。
(鬼なんている筈がない)
噂は噂でしかない。この世の中にそんな生き物がいてたまるか、と思う。
朱里は学院の傍らに建てられた住居に住んでいる。十七年間暮らしてきて、鬼を見かけた経験などない。絶対に有り得ない。
架空の存在についてはどうでも良かった。
夜中の学院内をさまようことが、朱里にとってはひたすら恐怖だった。けれど、同級生達にとってはその恐ろしさが刺激的なのだろう。
噂の真偽など、本当はどうでもいいのかもしれない。
考えるだけでうんざりするが、とりあえず明日全てが終われば、自分の憂慮は消えてなくなるのだ。一晩だけ闇に包まれた学院の恐ろしさに耐えればいい。
朱里は覚悟を決めて、寝台の上で目を閉じた。
もし同級生達が企てた計画が露見すれば、学院からは生徒に対して厳しい罰則があるに違いない。停学くらいの覚悟は必要だろう。
恐ろしさに身が竦むと同時に、悪事に加担するという事実が更に気分を沈ませる。
どうかこっそりと、ひっそりと、全てが何事もなく終わりますように。
強く祈りながら、朱里はただ夜が明けるのを待った。