恭一と麻衣
第4章 恭一と麻衣
「恭一? ひとり廊下に立ちて何をかなせる?」
うちつけに恭一が右肩を手のひらもてぽんと叩きて彼が名前を呼ぶ者出でけり。物思ひの中に吸ひ込まれたりける恭一は、にはかに現実に引き戻されて「うわあ!」と叫びぬ。急ぎ顧みすれば、彼が朋友清原麻衣、にやにやしつつ立てり。前髪をぱつつんに切り揃へたるシヨートヘア、アーモンド形なせる一重瞼の両眼、小さき鼻にゆたかなる唇は調和して、麻衣が面をして端整ならしめけり。男子の間には、清原麻衣を麗しき類とて誉むる者もありけり。恭一も、心の中にみそかに「よろしき顔貌なり」と思ひけるに、麻衣はあまりに近き仲にありければ、春情はつゆもおぼえざりけり。
「あははは、いみじき驚きやうなるかな、いとをかし、ふあふあふあ」
「ちゆらなるか、脅かすな。稀有の女かな、人を脅かして笑ひ者にするよ、許すまじ」
「笑ひ者にしたるにはあらず、ただ君がここに立てるをいぶかりてそのゆゑを尋ねしのみなり。なんぞひとり廊下の真中に立ちてかなたをまぼれる? 突き当りの壁に面白きものありや?」
恭一はなほ動揺をえ鎮めで、しどろもどろになりつつ
「ええ、その、ううむ、例のごとく演劇部をいつ辞むべきか思ひつるなり」
などと、わざわざしきこと言ひけり。
「へええ、廊下の真中にて? しかもまたその問題なりな、いつの世までこれを引きずらんずるか、君は。恭一はある時は『いざ劇部を去らん』と言ひて、ある時は『我に責めなどなければ、おめおめと辞むるも潔からず』と言ひて、右へ左へ揺れ動く振り子のごとし。毒も喰らはば皿までてふ言葉もあれば、せめて夏の大会には出でてもありなん」
「うむむ、むべなるかな、理なり……」
その時は、劇部の進退などつゆも思はざりければ、恭一は返すべき言葉もなくて、麻衣の言葉にうなづくばかりなりけり。
「さるにても、君ほど異様なる人はあらじ、高1の頃より心づきなしと思ひ渡りて、なんぞなほも劇部に留まる?」
麻衣に心の惑ひをば知られじとて、あだなる口実を言ひけるに、つひに知られることなければ、恭一も心やすく思ひて、
「特にゆゑよしもなし、本読み勉強するほかに為すべきこともなければ、つれづれを慰めんとて劇部にゐるのみ。あ、ちゆら、これより生徒会室に行かんずるか、我も行かん」
「え、また? 昨日も来しかば、今週は今日で3度目なりな。責められもこそすれ、『君が講堂より逃れて生徒会室に入り浸る』などと劇部の人々に知られば」
「さもあらばられ、さらにこそ苦しからね。すでに劇部の奴らには痴れ者とて見放たれしかば。いざ行かん」
麻衣はなほも案じたる目を向けたれど、恭一はさらに目を留めで、前へすたすたと歩きはじめけり。麻衣もその後ろを追ひて、しばし歩きて左に折れて、階段を昇り、トイレ、空き教室2つ3つ、教材準備室を過ぎ越して、「生徒会室」てふプラスチツク板懸かれる扉の前に至りにけり。