江南の春
第1章 江南の春
清原麻衣は名鉄江南駅のホームに降り立ちつ。最後に江南を見し時より、実げに3年近く経ぬるなり。線路に面する8人掛けのプラスチツク製ベンチも、紅や橙の LED にて「急行」「特急」などと表示したる電光掲示板も、扉が閉ぢんとする時に耳を突くかしましきブザーの音もさながら、彼が高校生なりける時に毎朝目と耳とに触れけるもののごとし。麻衣はうちつけに懐かしく思はれぬ。彼はホームの中央なる階段を降りて、小暗きなかに蛍光灯の白く光れる地下通路を渡り、人影まばらなる改札を通る。ホームの階段より改札までの経路も、麻衣にはいと見慣れたる景色なりけり。出口に近づくほどに、視界はますます明るくなりゆく。地上に至る階段の、鼠色にすすけたるを、一段一段踏みしめんやうに登る。「これよりまたしばらく、この江南の地を踏まんこともかなふまじければ」と麻衣は思ひけり。
地上に出づ。出口の左手なる柱の傍にたたずみて、長方形なせる駅前ロータリーを舐め取らんとするやうにぐるりと見渡しつ。「朝の10時なれば通勤・通学ラツシユ果てて人通り少なけれど、そのほかは高校生の時に見し景色につゆも違はず。ああ、これこそ朝夕の登校・下校に見し江南なりけれ」と、なつかしさ余あまりて眼を輝かせつ。左を見れば、名鉄バス、踏切を通り越し前方に続く国道180号線へ走りゆく。右手には、商店街の入り口なるゲートの、緑青色の鉄骨もて三角に組まれたる見ゆ。そのゲートの下を、翁、柴犬を連れておほどかに歩く。正面には、ロータリーの長辺に沿ひて、細長き商業ビル建てり。コンクリートの外壁は鼠色にすすけたり。1階部分には、白きビニールのひさしの下に居酒屋・レストラン・喫茶店・古本屋などありしかど、いづれの店もシヤツターを固くさしこめ、その前を歩く人まばらなり。商業ビルの上には3月の青空広がる。おしなべて茫茫ばうばうと霞かかりて白くも見ゆれば、雲とわきがたく、「見渡す限り、かすみか雲か」てふ古謡ぞ思ひ出さるる。わづかひと月前の空は、くまなく澄みて涙粒のやうに透き通れるを、その明澄さはいづくへか消えけん。「またこの江南の空を見ん時は一年の後か、はた二年の後か」などと麻衣は思ひけり。
彼は左に歩き、先にバスの通りし国道180号を歩きけり。すぐ右には学習塾や不動産会社などある高きビル見ゆるも、歩きゆくほどに高きビルは減りて、黒き甍並べる民家立ち並び、緑の鉄柵もて囲ひたる駐車場など見ゆ。すでに10時半を過ぎて日は高く昇りぬ。風も春の訪れを告げんとするやうに穏やかに吹く。麻衣は道を行くほどに、身体の奥よりじんじんと暑くなりぬ。稲沢なる実家を出でし時はまだ寒くて、吐く息もうつすらと白かりしかど、今は汗こそ出でなんとすれ。いまだ枝に萎びたる紅の花びら残れる梅の木の下に立ち止まりて、着たるライトグレーのウールのコートを脱ぎて、卵焼きのやうにくるくると巻き畳み、ハンドバッグとともに左手に抱へけり。さる後にふたたび歩き出しけり。霞かかりたる空を仰ぎつつ、麻衣は「佐久間と陳に会ひしは去る年の成人式なり。ふたりはいかにあるらん、つつがなきや」などと思ひけり。