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【2】
どこか物悲しい、空が茜色に染まる時刻。生徒たちの多くは速やかに帰宅するか、校庭などで部活動に励んでいる。
教室に残って暇潰しの雑談に興じるような者もいる中、校舎裏に少女の姿はあった。十六歳に成長した飯縄菊花である。黒を基調とした女子用のブレザーに袖を通している。腰まで伸びた艶やかな黒髪に、色白で滑らかな肌。絶世の、と形容するのも陳腐な美貌の持ち主だ。胸の膨らみは十代半ばの年齢以上に主張し過ぎてはいないが、目鼻口の配置は美の女神の化身と思われるほどに完成されている。やや低めの身長には賛否の余地があるが、数年も経てば、中学生じみているといった揶揄の対象にならなくなる程度には育つ可能性は十分にある。
そんな菊花を数人の女子生徒たちが、校舎の壁を背にしたUの字型にとり囲んでいた。一様に表情は険しく、穏やかな雰囲気ではない。ただ、悪意を向けられている菊花に表情の変化はなく、怯えや動揺は微塵もみられなかった。
聞けば、女子生徒たちの間で人気の男子生徒が菊花に告白し振られた。それでなぜか、関係がないはずの彼女たちが怒っているらしい。いや、感情論的に考えれば分からなくもない話だが、それにしても理解不能な勢いで、彼女たちは罵詈雑言を浴びせかけている。
「ちょっと、聞いているの!?」
無反応を貫く菊花に痺れをきらしたのか、集団の先頭に立って罵っていた、一際気が強い印象がある髪の毛を茶色に染めた女子が叫んだ。
数秒間の不自然な沈黙を挟んで、菊花が口を開く。
「……話、終わった?」
最後の問いかけに反応したのではない。それどころか、これまでの話を聞き流していたような、状況を把握していない態度に、頭に血が上ったとしても無理はない。意味不明な言葉を喚きながら、茶髪の女子生徒が掴みかかっていった。集団の先頭にいたこともあるが、周囲が止める間もない早業である。
直接的な暴力沙汰に発展した事態に恐ろしくなったのか、一部の女子生徒が口元をおさえて恐怖の表情を浮かべた瞬間、彼女たちの背後で『どしゃっ』という重みのある鈍い音が唐突に響いた。
女子生徒たちが振り返ると、そこには信じ難い光景が広がっていた。血塗れの男子生徒が倒れていたのである。目や口は虚ろに開かれ、手足は人形のように力なく投げ出されている。地面に染み渡る血は、じわじわと放射状の広がりを見せ、腰を抜かして尻餅をついた女子生徒のところまで届きそうな勢いだ。
先ほど、茶髪の女子生徒に襲い掛かられた菊花はどうなったのかというと、柔道の心得でもあったのか、自身に向かって伸びてきた手を掴むと相手の体を巻き込むようにして投げ飛ばし、あっさりと返り討ちにしてしまっていた。本来とは真逆の方向に折れ曲がった肘関節が痛むのか、茶髪の女子生徒は脂汗を滲ませて苦しみ、起き上がれないでいる。故意か事故かの判断はつかないが、それをおこなった彼女は平然とした様子で見向きもしない。
「また、か。……どいてくれる」
凍り付いていた女子生徒たちの時間をふたたび動かしたのは、背後からの無遠慮な言葉だった。
声にならない悲鳴と共に、正面を塞いでいた人垣が割れると、菊花は履いている靴が血溜まりに濡れるのも厭わず、淡々と歩みを進めて周囲を唖然とさせた。さらには、意味があるのかないのか、もの言わぬ男子生徒の下まぶたを人差し指で引っ張り、血走って黒目があらぬ方向をむいた眼球を眺めると、「うん」と納得した素振りで立ち上がった。
「腕も足も繋がってるけど、息はしてない。屋上から……」
意味ありげに見上げて、「落ちたのかな」と続ける。
「人気のない校舎裏を選んで落ちるなんて、奥ゆかしい自殺者もいたものだね」
と、冗談なのか本気なのか分からないようなことを言うと、菊花は感情の籠らない視線を女子生徒たちに送った。
「……暇なら、先生を呼んできてあげれば。ついでに、その子を保健室にでも連れていってやるといい。ぼくは帰る」
迷いなく背を向ける菊花に、女子生徒たちのひとりが「ま、待ちなさ……」と引き止めかけたが、対応が面倒になってきたのか、不機嫌そうに睨まれると黙ってしまった。頼れる相手がいなくなる不安もあったのかもしれないが、それ以上に、あまりにも動じない菊花を怒らせるのが怖くなったらしい。