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君想う故に

 エリスさんが帰ってきたのは、すっかり日も暮れてからだった。無事に戻ってきて一安心すると共に、俺は邸宅の前に停まる馬車から、エリスさんが出てくるのを待った。

 御者がエリスさんのことを手助けする間、俺はずっと待っていた。


「お帰りなさい」


 馬車から降り立ったエリスさんと目が合う。

 いつものような簡単な装いではなく、今日のエリスさんは藍色の布地に、金の刺繍が施されたドレスを身に纏っていた。


「オルド……」


 俺と目が合ったエリスさんの表情は、暗がりでよく見えなかった。声には元気はなく、どこか戸惑っているようにも聴こえた。


「おかえりなさい、エリスさん」


 ひとまず、声を掛ける。エリスさんは頷くと、ゆっくりと俺に近寄ってくる。

 玄関ポーチの照明に照らされたエリスさんの顔は、酷く憔悴しているように見えた。


「ノエルが、話したいことがあるそうです」


「ノエルが?」


 エリスさんが足を止め、俺のことを見つめる。


「少し話して、ちゃんとご飯も食べさせました。もう部屋から出てきてますよ」


「そう、よかった……」


 エリスさんが安堵の吐息を零す。本当に心配していたんだろう。胸に手を当て、エリスさんは嬉しそうに微笑んだ。


「紅茶を淹れます。後でノエルと部屋に行きますね」


「ええ……。あ、オルド……」


 邸宅へ入りかけた俺を、エリスさんが呼び止めた。俺は立ち止まり、エリスさんの顔を覗き込む。


「……なんでもないの。ノエルのこと、ありがとう」


「いえ、いいんですよ。それじゃあ、着替えが終わったらナルを寄越してくださいね」


「わかったわ」


 エリスさんが柔らかく微笑む。ノエルが部屋から出たと聞いて、本当に嬉しいんだろう。さっきまでの疲れ切った様子はなりを潜め、いつもの笑顔が戻りかけていた。

 俺はエリスさんと別れると、紅茶を用意するために厨房へと向かった。食堂では、ノエルがグレイウルフのぬいぐるみを抱き締めて待っていた。


「エリスさんが帰ってきたから、紅茶を淹れて持って行こう」


 俺が声を掛けると、ノエルが緊張した顔で頷いた。

 エリスさんにランドルから言われたことを告げる。それ自体はさして難しいことじゃない。

 ノエルにとって恐怖なのは、それでもなお、エリスさんが自分を捨ててランドルと結婚することだ。貴族同士の利権が絡んでいる以上、阻止するのが難しいのはわかる。おまけに、証人はノエルだけ。

 エリスさんがどんな判断をするのかは、正直俺にもわからなかった。


「さて、お湯はこれくらいでいいか……」


 銀色のティーポットには、火の魔術が施されていて保温してくれる。持続時間は長くないが、お茶を楽しむ間くらいは充分にもつ。

 焼き菓子を皿に並べていたノエルが、ワゴンに載せてくれた。準備ができたところで、ちょうどナルが厨房に入ってきた。


「オルド様、エリス様のご準備ができました。こちらは私がお運びいたしますね」


 ナルはどんな時でも表情は崩さない。それは、彼女が冷たい人間だからではない。

 ナルはアペンドック家での仕事に誇りをもっていて、常に主人の影となり完璧な仕事をこなすことを自分に課しているからだ。スチュワードを置いていないアペンドック家での召使いや使用人の総括は、ナルの仕事だ。今まではナルとニナ、それに庭師しかいなかったが、今は召使いも増やしている。警護の任に就いている若草騎士団の世話をするのに、召使いが足りないからだ。

 そんな中で、ナルは本当によくやってくれていると思う。それはひとえに、かつて機械都市の孤児だったナルを拾い上げた、ケインさんやエリスさんへの忠義からくる。俺と歳がかわらないのに、ナルは本当に苦労してきた人なんだ。


「ありがとう、ナル」


「私などには勿体無いお言葉です」


 俺とノエルの後ろに、ワゴンを押したナルが続く。エリスさんの部屋の前まで来ると、ナルが進み出て扉をノックした。


「ノエル様とオルド様をご案内致しました」


「開いているわ」


 エリスさんの返事に、ナルが扉を開く。俺とノエルが中に入るのを確認すると、ナルがワゴンを押して入ってきた。


「お母様……」


 エリスさんの顔を見たノエルが、震える声で呟く。やはり怖いんだろう。俺はノエルの背を優しく押してやった。

 それが後押しになったのか、両手を広げて微笑むエリスさんを見たからか、ノエルはグレイウルフのぬいぐるみをその場に落として駆け出した。エリスさんの腕の中に駆け込んだノエルは、声をあげてわんわん泣いた。


「ノエル……」


 優しげな声音で、そっと頭を撫でるエリスさん。腕の中でしゃくりあげるノエルが落ち着くまで、エリスさんはノエルを抱き締めていた。

 俺とナルは、入ってきた時のまま。二人が落ち着くまで待つことにした。俺はグレイウルフのぬいぐるみを拾い上げると、長椅子の上にそっと置いた。こいつも中々に苦労をしているようだ。

 やがて、ノエルが泣き止んだ。エリスさんから離れないノエルはそのままにして、俺とエリスさん、ついでにくついたままのノエルは長椅子に座る。

 ナルが紅茶と焼き菓子をテーブルに並べ、部屋から出て行った。


「……ノエル。エリスさんに話すことがあるんだろ」


 鼻を赤くしたノエルが、不安げに俺とエリスさんを交互に見つめる。エリスさんが優しく微笑み、話すように促した。


「……ノエル、いい子になるから……お母様とずっと一緒にいたい」


 やっと言葉になったという様子で、ノエルが呟く。瞳には、やっと止まったはずの涙がじわりと溢れている。

 エリスさんはノエルの言葉に、酷く衝撃を受けたようだった。いや、まるでノエルが何を言っているのか理解できないと言いたげな表情で、戸惑ったように俺を見る。


「ランドルと婚約されたと聞きました」


「誰からそれを……」


 今度は明らかに狼狽し、エリスさんがノエルを見下ろす。


「……ノエルに関しては、ランドル本人から、ですかね」


「そんな……いつ? あぁ……まさか……」


 青い顔でうわ言のように呟くエリスさんを、ノエルが不安げに見上げている。


「オルドのお見舞いに来たときだよ……」


 目尻の涙をぬぐいながら、ノエルが答える。俺が眠っている間に、ランドルはノエルと接触していた。許しがたい。


「あの時なの……? それで、ノエルはなんて言われて……」


「……ノエル」


 言いにくそうにしているノエルに、俺が声を掛ける。ノエルは意を決したように、震える唇を動かした。


「ノエルが悪い子だから、いっぱい悪いことが起こるんだって。ノエルは悪い子だから、お母様とランドルさまが結婚しても、一緒には住めないって……」


「ランドルが、そう言ったの? だからノエルは部屋にずっと?」


 震えながら頷くノエルに、エリスさんは悲痛な表情を浮かべた。すぐにノエルを抱きしめると、くぐもった声で続ける。


「あぁノエル……どうしてそんな……。ごめんなさい……違うの。そんなことを言われていたなんて……」


「エリスさん。一つ聞いてもいいですか?」


 俺の言葉に、エリスさんはノエルを抱き締めたまま頷いた。その表情は、怒りとも悲しみともとれる複雑なものだ。


「ランドルは、エリスさんにも何か言ってきたんじゃないですか」


「オルド……あなたどこまで……」


「想像です。カルラから聞きましたけど、ランドルはずっとエリスさんに恋をしていたと。じゃあ、何故今なんです? あいつの目的はなんなんですか」


 エリスさんは悲しげな瞳で俺を見つめる。それは、何か見えないものと戦っているようでもあり、何度か口を開きかけては閉じて、を繰り返していた。

 ややあって、諦めたように目を伏せると、エリスさんは疲れ切ったように微笑んだ。傷ついた、自虐的な笑みだった。


「……体制の改革と、ノエルの命」


 ぽつりと呟かれた言葉。俺は聞き漏らしまいと、エリスさんを食い入るように見た。


「彼と結婚する条件よ」


「どういうことですか……」


「認めたの。ケインを……リルハたちを殺した……いいえ、直接手は下していないのかもしれないけど、自分が指示したと。全ては、レギンバッシュの研究の利権、そして私が目的」


 エリスさんの瞳に灯るのは、激しい憎悪の炎だ。優しく聡明なエリスさんに、こんあな表情をさせる。俺は益々ランドルを許せない。許していいわけがない。


「彼は言ったわ。オルドのことは殺す気はなかったと。あなたにはキャロライン嬢を当てがいたいから。でも、ノエルに関しては利用価値がないから、私と結婚できないなら命の保証はできないと。だから、条件をつきつけた」


「それが、ノエルの命と体制の改革ですか。でも何故、体制の改革を?」


「あなたの夢を手助けしたかった……」


 酷く傷ついた様子で、エリスさんが呟く。同時に、必死に抑え込んでいたランドルへの憎悪と、自分の不甲斐なさに頭が沸騰しそうになる。

 際限なく湧き上がる怒りとも憎しみとも判別できない感情に、俺は立ち上がった。


「だからって、エリスさんはそれでいいんですか?!」


 荒げた言葉に、ノエルの肩がびくりと跳ねた。俺はそれで少し冷静になり、長椅子に座り直すと溜息をつく。

 そんなこと、聞かなくてもわかる。エリスさんは自分の幸せよりも、ノエルや俺の身を案じてくれる人なんだ。


「……ごめんなさい、オルド。でも、こうなると少し事情が変わってくるわね……」


 暗い表情で呟くエリスさんが何を思うのか。俺に推し量ることはできない。

 どうするのが最善なのか。人生経験も人間としても未熟な俺には、考えもつかない。そうして、エリスさんから出された提案に、俺はまた頭を悩ませることになるのだった。

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