前編
恐ろしくなったのです。
おかしいとは思います。それまで何千年何万年と平然と繰り返してきた事を突然恐ろしく感じるだなんて。
ですが私は唐突に恐怖を感じたのです。
血煙を噴く敵の姿も、魔法の武器を投擲する味方の姿も、荒野に斃れる戦士達も、空を覆う悪鬼達も、その場にある全てが恐ろしくなりました。
だから私は逃げ出しました、永劫に続く神々の戦場から。
それから一体どれだけの時間を彷徨っていたのでしょう。その間に多くの国が滅び、多くの国が興り、多くの王が生まれては死に、いつしか私への信仰はなくなってしまいました。
私の教えは否定され、私の偶像は打ち毀され、私の奇跡は魔法に堕しました。残った信者達は排斥され、散り散りになり、最早自身の信仰を忘れてしまいました。
私は私を失い、小さくて醜い何かになって、夜の明けない荒野にある一つの岩の陰にへばり付いていました。じっと。
その次の瞬間、私は木の床から立ち昇る光を浴びて佇んでいます。
目の前には不敵に笑う白い服の女性がいました。黒い髪をひっ詰めて、白い帽子を被っています。腰には細身の片手剣を下げていました。
私は思わず後ずさりし、背中を堅い壁にぶつけます。
「イスネト!? 使徒イスネトなのですか!?」
その女性はかつて私の目の前で戦死した使徒イスネトに瓜二つでした。イスネトではないと分かっていても私はそう問わずにはいられません。
女性は驚いたような様子で私を睨みつけました。
「いえ、違います。私は女神様の信徒に過ぎませんです」
何が何だか分かりません。
見渡すと、そこがとても狭い部屋だと分かりました。小さな窓から差し込む血のような赤い光は夕陽の明かりでしょうか。明かりに照らされた部屋の中は多くの書籍と様々なガラクタに溢れています。
私は次に自分の手を、そして足を見ました。それは人間の姿をしています。私は人間の姿で現世に顕現していました。二つの大陸と三つの海から信仰を大いに集めた全盛期でも、私を顕現させるほどの信者はいませんでしたのに。
その女性の服の丈を長くしたような白いドレスを私は身につけています。かつて繁栄を極めた王国でよく描かれた姿でした。
「貴女は何故私を睨むのですか?」
その鋭い目を見てそう聞かずにはいられませんでした。
「睨んでいないですわ。女神さま。これは生まれつきでございますです」
「そう……ですか」
どうやらこの者が私を降ろしたようです。
その女性は勿体つけて咳ばらいをし、ぎくしゃくと礼をしました。
「こうして拝謁の機会を賜り、先ずは拝謝の意を申し上げます。医術と治療の女神であらせられ、全ての足無き者の守護神であらせられるウツジ様に……」
ウツジ。私の名前です。
「前置きはいりません。何故私を顕現させられたのですか? 私への信仰など最早微塵もないでしょうに。いや、それどころか私の存在を知る者、いえかつて存在した事を知る者すらいないと思っていました」
「ええっとそれはですね。ウツジ様におかれましては、その……」
「無理に堅い言葉を使わなくとも構いません」
女性はそれまでの厳めしい表情とうってかわって嬉しそうな笑顔になりました。
「そう? 助かるわ。期限損ねて帰っちゃったらどうしようかと思ってとっても緊張したのよ。それなりに練習したんだけどやっぱりぼろが出ちゃったわね」
「あなたお名前は?」
一人喋る女性を遮って私は言った。
「あ、はい。フローレンスよ」
「それではフローレンス。教えも偶像も奇跡もなしにどうやって私を顕現させたのですか? そもそも私の事を知る者がいただなんて」
フローレンスは哀しそうに首を振ります。厳かな振る舞いのようにも思えました。
「正直なところウツジ様の事を知る者はこの世のどこにもいない。少なくとも私は知らなかったわ」
「それならば何故?」
フローレンスは屈み込み、私の足元に散らばっていた物を拾い上げました。鳥の形のピンバッジに模様のある布の切れ端、古びた硬貨に薄い冊子です。
「これが助けになったわ。でもま、とりあえずこっちに来て」
フローレンスはピンバッジを帽子に付けて、隣の部屋へ移動しました。
私の体も引っ張られるようについていきます。私の意思とは無関係に。
「待ちなさい。一体私は何を媒介にして顕現しているのですか?」
「これです」
そう言ってフローレンスは頭に乗った帽子を指しました。
隣の部屋では数人の男女が亡霊のように忙しそうに、多くの人々の間を立ち歩いていました。人々のほとんどは苦悶の表情を浮かべています。目に見える怪我をしている者はいませんし、そのほとんどが病人なのでしょう。どちらかというと若い人が多いようです。
それはあの戦場にも似た景色でした。どこにも希望はなく、時に死すらが希望に思えてくるような景色です。戦場ほどではありませんが低く重い呻き声が部屋の中を這いまわっています。
私は目を背けて嗚咽を飲みこみました。あの時の記憶が蘇り、私の心を締め付けました。
「どう思う?」
と、フローレンスが率直に言いました。
この狭くて汚い建物には似つかわしくない事ですが、そこでは医療が行われようとしているようでした。というのもその行為のほとんどが治療の役には立たないものでした。
「フローレンス。医療だと思ってこのような行いをしているのならすぐにやめさせなさい。これでは治る者も治りません」
「さすがは医術の女神さまね。ウツジ様。この人達を奇跡で治せる?」
部屋を見渡しまたしたが、治せそうな人はいません。
「……いいえ、ここに……私を信じている者はいません」
「そうよね。じゃあ私に取り急ぎこの場で使える医術だけ授けてもらえますか?」
「良いでしょう」
私はフローレンスに指示を出して、人々に出来る限りの処置をしました。
フローレンスは慈母のような優しい表情で一人一人に対処していました。
しかし設備も薬もろくにないこの場所で出来る事はほとんどありません。多くの者に何もしてやれず、二言三言のアドバイスのみで帰す事になってしまいました。
それでもささやかな笑顔と共に感謝の言葉を述べてくれて、私の縮こまっていた心は少し解きほぐれました。
医者か看護師のように働いていた者達を残し、私達は元の部屋に戻ります。
「彼らは良いのですか?」
「皆は私の同志よ。私を信じてくれているわ。けど、ウツジ様の事を信仰してはいないの。ごめんなさい」
「いいえ。構いません。私が悪いのですから」
フローレンスは首をかしげて言います。
「どういう事かしら? ウツジ様への信仰が無くなった事はウツジ様に原因があるという事?」
「ええ。その通りです。私が神々の戦場から逃げ出した事が原因なのです」
「詳しく聞いても良い?」
私は神々の戦についてフローレンスに教え聞かせました。
永劫に続く正の神々と負の神々の戦い。その趨勢が現世のありようにも影響するという事。そして私はただ一柱、戦場から逃げ出してしまった事。
「それからはただ己に対する信仰が世界から失われていくところを見続ける事しかできませんでした」
「なるほどね。理解したわ。ウツジ様が臆病だなんて記録も勿論なかったわね」
「すみません」
「私に謝っても仕方ないでしょ。それじゃあ次は私の番ね。どうやってウツジ様を知ったのかだけど、何て言えばいいのかしら。最初のきっかけはむしろウツジ様の不在よね。不在こそが私に疑問を持たせたの」
「不在……ですか」
「ええ。まず四禍神と六福神がいて、それで延々と戦争をしているわけだけど」
「私が逃げるまでは七福神と呼ばれていました」
「やっぱりね。収集した神話にはそれぞれ微妙な違いがあったんだけど、大筋はどれも大体同じ。だけど神々の戦争の段になると説話や解釈に大きな違いが生まれていた。そしてどれにおいても病と怪我の神イアメイは戦争に参加していないかのようだった。病教の神官はこれを根拠にイアメイを神々の王と見なしているけれど、古い文献にはイアメイを含む四禍神と六福神が宇宙の終わりまで争っていると記されていたわ」
「私がいない状況ではどちらも妥当な説明のようにも思われますね。情けない事ですが」
「でも私は納得いかなかった。神話に何か穴があるように思えた」
私は続きの言葉を黙って待っていました。
「病神イアメイと戦う神様がいない事に納得出来なかった」
それは私の事でした。病と怪我の神にして勇敢なる者の守護神イアメイと戦っていた者、戦うべき者は私以外にありませんでした。
「何だか遠回しになっちゃったわね。そうして私はあなたの存在を求めて東西を探求したの。東はイフス死教国から西はアミヒス群島の部族国まで。ありとあらゆる文献、遺跡、様々な伝統的文物にあなたの痕跡を求めた。このピンバッジが」と言ってフローレンスは帽子に付けたハトを模したピンバッジを指差します。「最初の手掛かりだったわ」
「白い鳩は私の象徴動物でした」
フローレンスはポケットから硬貨を一つ取り出しました。
「そうね。次にこの、古イクオイブの5エナク硬貨の意匠、三つの石が表に、七つの葉が裏にあしらわれている。いつの時代からかこの葉が六つに減ってしまうの」
「私が逃げた時代からですか?」
「すぐではないわよ。しばらくは教えも記憶されていたはず」
私が逃げ去ってなお私を信じていた者達は最も報われなかった者達なのかもしれません。涙が頬を伝いました。
フローレンスは私の涙に気付いていましたが、そのまま話を続けてくれました。取り出した布には精緻で豪奢な図柄があしらわれていました。
「この布の模様は、まあ細かい意味は忘れたけど十の玉座と一つの空席を表しているらしいわ。そして」
そう言ってフローレンスは薄い冊子をぞんざいに開きました。そのページには黒く巨大な角と長く伸びた白いたてがみの怪物が描かれていました。赤く血走った眼は何かを探し求めているようです。
「最初の臆病者、世界の果てに潜む怪物ウォイリフク。病教の連中もあなたの存在には気付いていた。だけどわざとこう解釈した」
「これは、私なのですね」
「私にとってはこれはウツジ様ではないけどね。ただの巨大な山羊よ」
そう言って笑うフローレンスの健やかな笑顔は私の心まで照らしてくれました。
一転、フローレンスは真面目な表情になり、その双眸で私を見据えました。
「それじゃあ本題よ。さっき見ての通り、この世界は病に冒されている。その上医術のほとんどは失われたの」
「私が逃げてしまったせいですね」
フローレンスが首を横に振る。
「それだけじゃないわ。病神イアメイを崇める病教が世界中に広がり、医術の研究も禁止されているの」
「そんな……。ですが生きとし生けるものは死を恐れるもので、病を良しとはしないでしょう? 一体どのような教えなのですか?」
「全ての病と怪我を神の与え給うた試練と解釈しているわ。病にて死んだ者は死後祝福を受け、運よく病にならず生きた者は試練を受ける者達の世話をする使命を与えられた、と。そして治療を行う者は神へ挑戦する冒涜者って事になるの」
しかしそんな事でこのような文明を維持できるとは思えません。小さな窓の外には行き交う人々が見えます。大人も子供もいます。
「そんな事をすれば疫病一つで人類が滅びてしまいかねません。そうでなくとも平均寿命は大いに下がり、複雑な社会を運営できる年長者が足りなくなってしまうでしょう」
「その事についてはおいおい話すわ。とりあえず私のお願いを聞いてもらえる?」
「何でしょう?」
フローレンスは握りしめた拳を掲げ、決意の強さを表しました。
「この世から病も怪我も一掃するのよ。それがお願い。それが私の夢。その為にウツジ様への信仰を求めたの、私は」
「でも、今の私に奇跡は起こせません」
「何とかならないものなの? 奇跡が起きなきゃ信仰も集まらないわ」
「信仰と祈りがなければ奇跡は起きないのです」
「忘れ去られる一歩手前だったんでしょ? もう人の信仰はいらないの?」
「そんな事ないです! でも私には……」
フローレンスは腕を組み、気楽な頬笑みを湛えて言います。
「なら少しずつ頑張りましょう。私は伝道する。ウツジ様は小さくても良いから奇跡を起こす」
「その少しの奇跡さえ、少しの信仰がなければ……」
ふとフローレンスの帽子のピンバッジが仄かに光る事に気付きました。それは帽子を媒介とした私へのフローレンスの信仰の光そのものです。
そうでした。私を顕現させた以上、そこには信仰があるという事。フローレンスは私を信じてくれているという事です。
「今は奇跡が無理でもウツジ様には医術がある。それで信者を増やせば奇跡も可能になる。奇跡を目の当たりにすれば信者はさらに増えるって作戦よ」
「そう上手くいくものなのでしょうか?」
「私達がやるべき事をやるだけよ。協力してくれるわよね?」
私とてこのまま忘れ去られたくはありません。
「分かりました。病に伏す者達を救う為にも」
「ありがとう。ウツジ様」
無邪気な笑顔でフローレンスは言いました。
つづく。