高層の観察者
商業用超高層ビルの展望台レストランで、一組の男女が食事をしていた。せっかく眼下に都心のほとんどを見渡せる窓際の席だというのに、男の方はその眺望になんの関心も払わず、ただ黙々と料理を口に運んでいる。スーツを着ているのに、現世のことごとくに飽いてしまっているかのような、そんな仙人じみた雰囲気を醸し出している――まだ青年だ。
対して、相対して座っている女性の方は男と対照的と言えた。ひとくちたべるごとに料理の感想をややオーバーリアクション気味の身振りとともに述べ、景色を見ては歓声をあげている。妙齢といっていい年齢だが、まるで子どものように見えた。身に着けている、素人目にも明らかに高級とわかるスーツがひどく似合わない。
「――いまさらなんですが」もぐもぐと口を動かしながら女がしゃべる。「遠上さんはなんでこんなことをしようと思ったんですか?」
「……」
初めて男が箸を止め、顔を上げた。口の中のものを嚥下し、ナプキンで拭ってから答える。
「答え合わせ、かな」
「答え合わせ……ですか? 何のです?」
「僕の理想の世界の、だね」
きゃあ、と女は短く歓声をあげた。
「ロマンチストなんだ、遠上さん」
「生憎だけど」男は瞑目して言った。「僕は生来、夢のない男だよ。将来の夢を聞かれるたびに困ってた。僕はどちらかといえばサイエンティストだろう。ロマンチストならこんな回りくどいことをせずに世界を変えてしまったに違いない」
「でしょうね~」女はうんうんとうなずく。「あたしが遠上さんの立場なら、もう世界はあたし色に染まってます」
「君と僕の立場が逆じゃなくて本当によかったよ」
「いやいや」女はフォークを振る。「遠上さんにとっても素敵な世界だったはずですよ~? なにせその世界の遠上さんには、素晴らしすぎる嫁がいますからね」
男は苦笑した。
「『ある論理系に矛盾が無いとしても、その論理系は自分自身に矛盾が無いことを、その論理系の中で証明できない』。さっきの奏さんの発言はいい例だね。個人の理想なんて、その人間の妄想にすぎない」
「む~」と奏と呼ばれた女は口を尖らせた。「難しい言葉で混乱させられた隙にバカにされたような気がします」
「馬鹿にしたわけじゃないさ。これは真理だよ。奏さん、ゲーデルを読んだことは?」
にこにこ笑って奏は言った。
「あるように見えます?」
「そうですか、残念だな」
遠上はコーヒーカップを手に取り、ブラックのそれを瞑目して飲んだ。コーヒーや煙草を手にするのは、彼が再び自分の世界に入ってしまう合図である。奏は慌てて遠上の気を引きそうな話題を探した。
「一つ疑問なんですけど」
「何だい?」
遠上はカップをてにしたまま片目だけ開ける。
「答え合わせっていったじゃないですか。でも、それだったらなんでこんなことをする必要があったんですか? ゲームの中でやれば済む話だったと思うんですけど」
「うん」
遠上は名残惜しそうにコーヒーの臭いを嗅いで、カップを置いた。
「僕はね、民主主義も社会主義もまったく同じ間違いを犯していると思っている。すなわち、人間をあまりに理想的に考えすぎた」
「え、遠上さん?」
「人間はふつう、身に迫った問題以外は考えないということだよ。『失って初めて気づく』ってよく聞く歌詞じゃないか。僕はもっとみんなに考えてほしいんだよ。ゲームの中で何が起ころうが、誰も真剣になんてならないだろ?」
遠上はわずかな着衣の乱れを正し、静かに席を立った。そして初めて、窓の外を見下ろす。そこには剣山のように突き出す無数のビル群、顕微鏡下の微生物のように蠢く無数の人々の姿があった。
遠上はガラスに手を突いて、ひとりごちる。
「『奴らに違う生き方をするよう強いる、それが私という恐怖だ』」
ここでも、耳を澄ませば微かに誰かの悲鳴が聞こえる。
遥かな眼下では、殺し合いが始まっていた――。




