騙されないものは彷徨う
階段を降り、渡り廊下を過ぎると、目指す実習棟の情報教室にはすぐについた。普段なら昼休みの食堂でしか見られない人だかりが蠢いている。柊野と凛花は背伸びをしてやっと中をのぞくことができた。
中には聞いた通りの光景が広がっていた。全員が着席している中、男子生徒が一人だけ立たされている。その理由は明白だ。彼は学生服の代わりに目の覚めるような赤色で染められたローブを羽織っている。
「はやく! 脱ぎなさいって!」
中年の女性教諭が男子生徒の真正面で、金切り声をあげている。
「なんど言わせるの! なんど、なんど、なんど、なんど! 私をバカにして!」
そういって、女性教諭はバンバンと床を踏み鳴らした。その様子を観衆は一様ににやにやとした表情で見まもっている。当の男子生徒は真っ赤になった顔で「ふー、ふー」と荒い息をつき、執拗に眉間を指の腹でこすっていた。
どう見ても、極度の緊張状態だ。
――なんで脱がないんだ。
脱いで着替えれば事態は収まるというのに、なぜあんなになってまで意地を張るのか。まったくわからない。
その時、凛花がぽつりとつぶやいた。
「あれ、《スカーレット・ローブ》だ……」
「……あ」
修野はその名前を聞いてはっとした。あの真紅のローブ、どこかで見たことがあるとは思っていたのだが、《wonder land》の装備品だったのだ。柊野は詳細な情報を思い出す。
「確かアイテムレベル60いくつの、中級インスタンスダンジョンのボスドロップか、なんか……」
「うん」彼女は首肯した。「ふた昔まえくらいに流行った《黒魔道士》専用装備」
「……水原さん、《wonder land》やってたんだね」
「あっ」
凛花は露骨にしまった、という顔をして、柊野の顔をのぞきこむ。もう誤魔化しはきかないと観念したのか、大きくため息をついてから言った。「うん」
同じクラスに所属していることくらいしか接点がないと思っていたので、この意外なつながりはうれしかった。共通の話題ができた。
「実は俺もプレイヤーなんだ。水原さん、ワールドはどこ――」
矢継ぎ早に質問を浴びせようとしたところで。
おおっ! と教室を囲っている生徒たちがざわめいた。女性教諭がついに直接ローブを引っ張り始めたのだ。
「脱ぎなさいよ! 脱げ――ッ!」
「うううううううぅうううううううううう! うわーッ!!」
ストレスが頂点に達したのか、男子生徒は叫んで、思い切り教諭を突き飛ばした。彼女は机と机の隙間に倒れこむ。周囲の生徒が浮かべていたにやにや笑いが、そのままひきつって固まった。
「あぎゃあああああああああああああああああああああ――ッ」
教師は、燃えあがっていた。
全身が火だるまの状態で、教室の床を苦しみながらのたうちまわっている。火力はものすごく、叫び声はどんどんと遠ざかっていくように小さくなってゆき、ものの数十秒でなにも聞こえなくなった。
床には、焼けただれほとんどの部分が焼失した遺体が転がっている。あたりに硫黄のようなおぞましい臭いが充満した。
「アーッ! アーッ!」
ローブを着た男子生徒は頭を抱えて叫んでいた。大きく見開かれた眼は、教師の死体から離れない。
「お前! なにやってんだ!」
ローブの男の近くに座っていた屈強な男子生徒が立ち上がり、腕をつかむ。ローブの男は奇声をあげ、腕を振りほどこうとする。
今度は、何がおこったのかしっかりと見ることができた。
ローブの男の手と手の間、なにもないはずの空間から、火の玉が出現したのだ。そしてその火の玉は、またたく間に屈強な男子生徒にぶつかり、彼の全身を一瞬にして焼き尽くす。
「きゃああああああああああああッ!」
教室中がパニックにおちいった。
中にいたものは、泣き叫びながら出口に殺到する。殺到するから詰まって抜け出せなかった。
「あははっ! アハハハハハッ!」
周りの騒乱にあてられたのか、はたまた、二人の人間を殺したことで完全にタガが外れてしまったのか、ローブの男はいまや完全に錯乱していた。なにかをさけびながら、水中でもがくよう滅茶苦茶に腕を振り回す。その一振りごとに虚空から火の玉が出現し、それが誰かを焼き殺した。
なんだこれは……。
「逃げよう!」
柊野は、射止められたように固まっている凛花の手を取って駆けだした。凛花の体にはまったく力が入っていない。ほとんど引きずるようにして地獄となった情報教室から遠ざかる。まるで何かから逃げる悪夢を見ているようだった。どうしようもなく心は急いているのに、遅々として足は進まない。
集団の後ろの方にいたのに、逃げ遅れていた。そして既に、教室の中からは何もきこえてこなくなっている。
「水原さん! 水原! ――凛花ッ!」
凛花は答えない。青ざめた表情で焦点のさだまらない目をこちらに向けているだけだ。
――ローブの男が、廊下に出てきた。
もう完全に吹っ切れてしまったのか、笑っている。笑っているようにしか見えなかった。
男が、いきなりこちらを向く。
「くっそ!」
凛花を抱きかかえて走ろうとする。すると廊下の奥、必死で逃げ延びようとする人の流れのなかをただ一人、逆行してこちらに向かってこようとする女性徒の姿が目に入り込んできた。
「駄目だ! こっちにくるんじゃない!?」
「その声……秋人なの?」
清流の流れのような長髪。切れ長の怜悧な瞳。状況に合わない涼しい表情で、女生徒が立っていた。
彼女は柊野水緋。柊野秋人の一つ上、三年生の実姉であり、生徒会長を務める才媛だ。
「貴方、なにしてるのよこんなとこ――」
「いいから早く逃げて!」
「逃げる?」水緋は眉根を寄せた。「胡乱なことを言うわね」
柊野は焦れた。駄目なのだ、あの光景を見なければ駄目なのだ。彼女はまだ何の疑いもなくいつもの日常の中を生きている。何を言っても、水緋を必死になって走らせることはできない。
「ん、貴方」
水緋が柊野の肩越しに声をかける。
「なんなのその格好は。校則違反よ」
けたけたと笑う声が応える。その声は、思っていたよりも近くで聞こえた。柊野の全身に冷たいものが走る。総毛立つ。
――無理だ、水原さんを抱いたままだと逃げきれない。それにもし、できたとしても――
姉だ。
姉を説得して逃げ出させることは不可能だし、二人目を抱える余裕なんてあるわけがない。
冷たい波が過ぎ去ったあと、柊野は一転して冷静になった。命の瀬戸際で、どうしてこんな風に落ち着いているのか。疑問に思って答えを探し、たどり着く。そうだ、自分にとってこの状況は、慣れ親しんだものでもあるのだ。仮想現実の中ではいつでも、命がけで戦っていた。
逃げることはできない。
一か八かだが、二人ともを助ける選択肢は一つしかない。
凛花を背に回し、ローブの男と正面から相対する。
「姉さん、この子を頼む」
言い捨てて、一歩前へ。ローブの男との距離は、10メートルほどに迫る。
「おおおッ!」
そのまま叫んで、駆けだした。ローブの男は驚いたような表情をしたが、すぐにけたけた笑いを取り戻す。両手で重量物を投げつけるようなモーション。炎の塊が出現し、猛烈な勢いで撃ち出される。
柊野は瞬時にローリングを行い、加速を維持したまま炎弾をかわした。
それは熟練された、危なげの欠片もない回避行動だ。男の表情から笑いが消えた。がむしゃらに腕が振り回される。連発される炎弾は、すべて柊野を外して廊下のあちこちに着弾。ガラスを割り、リノリウムの床に大穴を開けた。
「なっ!? なっ!?」
やっと事態を把握したのか、水緋の悲鳴じみた声が聞こえた。柊野は走りながら「逃げろ!」とだけ叫ぶ。姉なら、パニックに陥ることはないだろう。必ず凛花を連れて逃げてくれるはずだ。
――少しでも、時間を稼ぐ!
近づくにつれ、炎弾の密度が濃くなる。柊野は床を転がりまわるようにしてかわしていく。突進速度はどんどんと落ちていくものの、地道に一歩一歩、丁寧に男との距離を詰めていく。
そして死の弾幕の、一瞬の晴れ間。
「ッ!?」
男の詰まった悲鳴。柊野は一気に切り込み、拳を振りかぶった。この瞬間にたどり着くまでの全ての苦労を乗せ、渾身の力をもって男の顔面へとぶち込む。
ローブの男は派手にふっ飛び、床に倒れた。
「おおおおおおおおおッ!」
更に追撃を加えようと柊野が男に跳びかかった、その時。
“騙されないものは彷徨う(Les non-dupes errent)”
男の口から、はじめてまとまりのある言葉が発せられた。同時に、炎弾が腕の動作なしに現れ、飛来する。
「当たるか!」
危なげなく回避して、駆け寄る勢いそのままに男をサッカーボールキックで蹴り飛ばそうと、足を引く。
切迫した凛花の声が聞こえた。
「シューノ! 《BA》!」
《BA》とは『バック・アテンション』の略だ。視界が限られるVRMMOにおいて、背後からの脅威は現実において同様気づきづらい。そこで、主に全体を見渡す位置にいるヒーラー職プレイヤーが、前衛のアタッカーにこう呼びかけることで注意を促すことがある。
柊野は凛花の声に反射的に振り返る。するとかわしたはずの炎弾が向きを変えて再びこちらに迫っていた。
逃げようとするも、体が動かない。
いつのまにか立ち上がっていたローブの男に、羽交い絞めにされている。
「ぼ、僕の勝ち」
耳元で気色の悪い笑い声が聞こえる。
「んふふふふふふふふふふふふ! 僕の勝ちィ~っ!」
なすすべもなく、炎弾は胸部に直撃。一瞬にして燃え盛り、業火となって柊野を焼いた。
「あああああああああああああああああああッ!」
ローブの男が手を放すと、柊野の体は糸の切れた人形のように、床にくずおれた。
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