東京カテドラル
おどろくべきことに、その宗教施設の中には平和が作り出されていた。
どうやら、ギルド連絡用の《リンク・ジュエル》はまだ機能を失っていないらしい。PKの脅威から一般プレイヤーを守ることを目的に設立されたPKK自警団、そのリーダーである《ペインキラー》エーリエル・エルターの号令一下、東京圏に住んでいたギルドメンバーがここに集まり、仮想世界でそうしてきたようにここでも邪悪な《プレイヤー》から、無辜の人々を守っている。また、メンバーには医師や看護師、NPO社員が多く在籍しており、緊急避難所の設営や運営にノウハウをもっていた。そして、宗教団体の大物であったメンバーの提供により、大規模な施設を手に入れるという幸運。
それらの結果として、予想だにできない効率でこの聖域、『東京カテドラル』は確立された。
“聖女降臨”の噂は東京中に広まり、次々と人が集ってくる。その中には《プレイヤー》でありながら戦闘技能ではなく工作や採集などの道に生きる《ギャザラー》《クラフター》クラスの人間も大勢いた。どうやら彼らにしてもゲーム中のスキルが使えるようで、何もないところから――彼ら自身には見えているらしいが――食料や電池などの生活必需品を取り出せ、また設備がないのにそれを調理でき、さらに現実にはありえない速度で建物を建造することができた。その超常の能力によって、避難施設という言葉の印象とは裏腹に、その内部は豊かだ。
マスタークラスの《建造》技能を持つ職人によって高さ十メートルにも及ぶ城壁でカテドラル周辺が囲われたことにより、さらにその聖域は力を増した。今やここが、崩壊した東京で唯一の“都市”だ。流入人口は増加の一途をたどるが、事実上の長であるエーリエルはその門を閉じなかった。しかしカテドラルの面積には当然限りがあり、《ギャザラー》《クラフター》クラスの《プレイヤー》は貴重だ。自然、都市内部に凄まじいまでの貧富の格差ができ、住民の間には静かな緊張状態があった……。
五層構造のカテドラル最上階、そこにはミニチュア化された大聖堂がある。コンクリートで打ち出されたままの、禁欲的な印象を与える内壁。最長部が40メートルにも及ぶ三角錐の内部構造。信徒席には円卓に、椅子が六つ。そこに、一人だけ男が座っている。
「『人口は等比級数的に増加するのに対し、食料は等差級数的にしか増加しない。したがって貧困が起こる。これは必然の現象であり、社会制度によっては回避できない』」
静かに男は、祭主席で十字架にひざまずくエーリエルに引用した。
「つまり、マルサスの結論はこうだ。全ての人間を救済することはできないし、また救済するべきでもない」
「……なんとおっしゃりたいので?」
「要するにだ。キミの“全ての人を救いたい”という理想は高邁だが、この地上ではそもそも不可能な妄想なんだ。“神の奇跡”でもないかぎりはね」
エーリエルは立ち上がり、男の方を向いた。男は本を広げ、読んでいる。タイトルは『人口論』。
「わたくしを嘲りにわざわざいらっしゃったのですか?」
「違う、不思議なんだよ。なぜ“神の奇跡”への道を示されながら、それを辿ろうとしない? この世ならぬ夢を持つキミが救われる唯一の方法は、僕に従うことだけだよ?」
「傲慢ですわね。ご自分を神と僭称するとは」
「“全能者”という定義でいいなら、僕にはその資格があると思うよ」
エーリエルは歯噛みした。それは彼の言うことがそのとおりだと知っているからだ。ゲームに堕ちた世界で、ゲームマスターである彼、遠上燈夜にできないことなどない。
それでも。
「間違った道を辿って到達した理想に、わたくしは価値を感じません」
「それはキミの個人的な問題だね」
遠上は笑って本を閉じた。静かに腰を上げる。
「『地獄への道は善意で敷き詰められている』。……よく考えるといい翠」
ああそれと――と遠上は振り返り際に言った。
「キミはそう思っていても、向こうはどう考えているんだろうね? 黒はキミと違って躊躇はしないと思うけどな……」
お読み頂き感謝です♪




