聖女の降臨
「悪いな坊主」
突然、すぐそばからしわがれた低い声がした。顔を向けると、交差点の角に身を隠している集団がいる。
「正面のマンション屋上にハイレベルな狙撃手がいる。すまんが、お前を助けようとのこのこ飛び出せばこっちもあの世行きってわけなんだわ」
集団の先頭にいる初老の男が、煙草を燻らせながら喋っていた。
「……気にしないでくれ、俺のミスだ。けどアンタ、煙草なんて吹かしていると位置がばれるぞ」
「こりゃ驚いたな、まさかこっちの身を心配されるとは」
くっ、くっ、と男は笑った。
「だがな、ハイレベルな狙撃手と言ったろう? 腕の良い狙撃手の位置を知っているってことは、もう撃たれたことがあるってことだぜ。とっくに筒抜けなのさ、俺達の存在は」
「そうか……仲間が」
「三人ばかし、な。まるっきり今のお前さんと同じ手口だ。いい趣味してやがるぜまったく」
冗談めかしていながらも、男の眼は猛禽のように険しかった。《プレイヤー》なのかは分からないが、一見して荒事に慣れたタイプだ。それに比べて、男と一緒に身を潜めている男女はとてもそんなふうには見えない、一般的な人々だった。その表情には男のような余裕はなく、青ざめている。
「なぁ、聞いていいか。あんたらはどういう集団なんだ? まったくパーティには見えないんだが」
「俺達の関係性か……そうさな。さしずめモーセに導かれたユダヤ人ってところか。ちなみに俺がモーセだ、バチが当たるかな」
「ジジイっていう点では同意する」
「こいつ。くそったれなスナイパーさえいなければぶん殴ってやるところだ」
柊野と男は短く笑い合った。それは酷く場違いな行為だったが、必要なことでもあった。沈黙していれば容赦なく死の恐怖が襲い掛かってくる。
男は、モーセはそれを十分に分かってくれていた。
「この通りを超えたら、楽園はすぐそこなんだ。よく分からんうちに地獄になっちまった東京だが、ちゃんと救いの神もいる。それもちゃんと目に見える神様だぞ。どんな傷も病もたちどころに癒やしてくれ、おまけにとんでもないべっぴんの女神様。それがここを抜けた先の教会でキャンプを開いてくださっているのよ、どうだ、見たいだろ?」
「それはぜひ見たいが……本当か、モーセ?」
「おいおい。出エジプトの時だって約束の地は確かにあったろう。いいかげん信用してもらいたいね。……ここから女神のキャンプは近い。俺の帰りが遅いとなればすぐに助けが来る。希望はあるんだ、だから、諦めるなよ坊主」
「……サンキュー」
それは嘘だ。死の淵にいる人間に対するただの気休めだ。それは分かっているけれど、感謝の気持ちでいっぱいだった。
「トラップにひっかかってよかったのかもしれないな。《PK可能エリア》じゃ誰も信用しないことにしてる。こんなことでもなければ、あんたと会話することはなかったろう。きっと、殺してた」
「何言ってるんだ、おい」
「俺は悪魔なんだよ、モーセ」
柊野の黒瞳が金色に輝き始める。パチパチと周りの大気が弾け、小石が浮き出す。凄まじいまでの力が集まりだしている。
「坊主、なんだかわからんが止めろ!」
「タダで死ぬのもつまらない。癪だけどな、最後に神への道を拓いてやろう」
「生き急ぐな! 待っていれば助けが来る! なんだってそう……」
「向こうの物陰にいる連れが、いまにも飛び出してきそうなんでね。そうゆっくり構えてもいられないんだ。ああそうそう、俺が死んだら彼女を頼む。悪魔の連れだが、モーセを名乗るなら選り好みせず助けてやれよ」
じゃあ、と言ってから大剣――《エンド・レイド》を取り出す。向かいのマンションのどこかでは『とうとう気が狂いやがった』なんて嘲笑しているんだろうが、お生憎様。
斬り殺してやる――その住処ごと。
「やってこい、我が認める唯一の最後――!(Komun
du du letzer,denn ich anerkenne)」
詠唱の一小節目を口にし、剣を振り上げる。その時、モーセが動いた。
「おぉおおおおッ!」
雄叫びをあげ、スナイパーが待ち構える死地へと身を躍らせる。グラウンドに落ちたボールを掬うラガーマンの敏捷さで柊野を拾い上げ、死神に背を向けて凜花が隠れる路地裏へと突進した。
両手を広げて迎える泣き出しそうな凜花の顔が見えた時、背後から臓腑に響く重低音が鳴った。超高速弾特有の、F1マシンのような風切り音が続く。
「く、ぉおおおおおおおおッ……!」
銃声に劣らぬ絶叫を挙げて、モーセは柊野を路地裏へと放り投げる。この期に及んで何ら武器もスキルも出していないことから、彼は《プレイヤー》ではないのだろう。生身で男子高校生一人を放り投げるなど信じがたい怪力だった。受け止められるわけもなく、柊野は凜花と共に倒れこむ。
「モーセ!」
うつ伏せに倒れた彼の背中には、厚いコートの上からでもしっかりと分かるほどの出血があった。バケツをこぼしたような勢いで地面の上に血の海が広がる。素人目にもはっきりと分かるぐらい、明らかな致命傷だった。
「水原さん、早く回復……回復してくれよ!」
「……」
「早くしろよ水原! 手遅れになる! なにやってるんだよ、おねがいだから、頼むよ……っ!」
「……坊主、その辺にしとけよ」
かすれた声が柊野を打った。
そうだ、状況はオトリの人間が変わっただけ。回復しようと路地裏から飛び出せば、狙い撃たれるの。
「モーセ……なんでこんなこと、したんだよ」
「分からんなぁ。だが、動いちまう時は動いちまうのが、体ってもんさ。ま、そんなわけだからあんまり深く考えるなよ。儲けたとだけ、思っとけ……」
眠りに落ちるかのように、モーセの瞼がゆっくりと落ちてゆく。
「おい、眠るなよ、目を閉じたら死ぬぞ!」
「ああ。起きてる。起きてる……よ……むう?」
「どうした、どうかしたのか」
「残念だ……迎えが来ちまったぞ。……女神が見える」
「おい!」
叫ぶと同時に柊野にも見えた。
「……は?」
路地裏の狭く切り取られた視界からは、突然空から舞い降りでもしたかのように見えた。倒れ伏すモーセに手を差し伸べる女性。
「おい、アンタ――」
そこにいては駄目だ! 言い切る前に、無情にも銃声が響く。すぐ近くにいるからはっきりと見えた。透き通ったエメラルドのような長髪が覆う形の良い顔、その眉間に大穴が開いたのを。
――しかし。
女神は止まらない。
「神の動きの不思議なる、驚く奇跡成し給う(God moves in a mysteryous way His wonders to perform)」
詠唱されたのは単体回復系魔法では最高のスキル、《ヒーリングⅤ》だ。どんな重傷者であろうと、その手に触れさえすれば体力は全開する。モーセの傷は、嘘のように消え去ってしまった。
だが、一瞬といえどその治癒にかかった時間は、次弾のリロードを行うには十分すぎるほどだ。再びの銃撃が彼女を穿ち、そのHPバーは瞬時に崩壊した。
けれど彼女は《死亡》しない。痛みにあえぐことすらなく、何事もなかったかのように柊野に近づき、その掌で《部位欠損》デバフを払う。
彼女は驚愕に固まる柊野をほぐすよう、にこやかに笑ってみせる。
「お化けではありませんわ。神のご加護です」
そう言い捨てて彼女は、再び路地を出て、まだ重症のショックから立ち直れず伏せているモーセの前に立つ。VRゲームの経験がなければ、死亡寸前の状態から急に全快するという事態を脳が理解できない。少なくとも機能の回復に一分はいるはずだった。
そのあいだ、自らの身体を盾にしようというのか。
頭のなかでは自殺行為でしかないとわかっていても、感覚的には理解していた。彼女は決して死なない。神聖な彼女の命を銃弾ごときが損なうことはできないのだ、と。
元いた交差点の角、モーセが連れていた集団は一心に彼女へ祈りを捧げていた。きっと、彼ら・彼女達も平均的な日本人で、ちゃんとした信仰をもったことなどなかったろう。けれど、奇跡を目の当たりにしたなら、跪かざるをえない。
不死の聖女、目に見える神。
柊野は彼女を知っていた。姿形はゲーム内とは違っていても、その神々しいまでの精神は彼女以外に持ち得ない。
「《ペインキラー》……!」
凜花が熱を込めてその名を呼ぶ。聖女は嬉しそうに笑った。
「はい。嬉しいですわ、わたくしを知っている方と出会えるなんて。もしかして……そこのあなたも《プレイヤー》の方でいらっしゃる?」
柊野は首肯した。
「ああやはり……。不思議とわたくし、あなたを一目見たときからなにか心にひっかかるものがありましたの。アバターも解除されたというのに、ふふ、不思議ですね」
柊野は苦笑を返した。
「……そうでもないさ。アバターでも本物の体でも、動かしているのは同じ脳なんだ。いろいろ、嘘はつけないってことだろ」
――俺もあんたに気づいたぞ、とは言わなかった。シューノにとって彼女は《ペインキラー》ではない。斬っても斬っても死者を蘇らせる厄介な《デッドレイズ》、仇敵と言ってもいい間柄だ。
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