第一話
「情けなくなんかありません。私だって、……怖いです。いろんなものが怖くて、怖くて怖くて堪りません。だから凛、恐怖すること自体は悪いことではありませんよ。貴女は表情に出ない人だから、大丈夫でしょう」
父と大将が飛び降りるまでの間、私は凛を抱き止めて背中を撫でていてあげた。
美咲、ごめんね? 浮気をしている訳ではないのよ。貴女のことが好きな気持ちは、勿論変わったりしないわ。
だけど先生と私を慕ってくれる凛は、美咲と異なる可愛らしさを持っているんだもの。
「それでは、行きましょうか。いつまでもここに滞在しているのは危険です」
私の言葉に、凛はコクリと頷く。
この素直さと無邪気さを汚しているのが私であるような気がして、少し胸が痛んだ。
「止まれ。全てが罠だったのかもしれない……」
さすがに談笑しながらとはいかなかったものの、堂々と逃亡を謀っていた私たちの足を、父上の声が止めた。
その声色は今までに聞いたことがないものである。
どんな表情をしているのか、私は父上の方を見ることなど出来なかった。
全てが罠だったとは、どういうことなのだろうか。
……一人、足りないじゃない。そういえば、おじさんはどこへ行ったのかしら。
まさかあのおじさんが寝返って、私たちを騙したとでも言うの?
いいえ。それはありえないわ。彼は私たちの場所をわかっていたもの。
彼が香山に従うのだとすれば、わざわざ私たちを呼んでくる必要なんてないじゃない。捕らえてくることも出来たでしょうし、なんならその場で殺してしまうことだって出来た筈だわ。
でもそれだったら、彼はどこへ行ったのよ。
「全てが罠とはどういうことなのさ?」
大将は父上に問い掛ける。その姿を見ると、美咲に重なるところがあるわよね。
私も父上と似ている、のかしら。
私も父上のようになれているのかしら……。
こんなことを考えている場合じゃないわね。
「そのまんまの意味。嵌められたのかもしれないね。雪絵たちを呼んできた、彼も含めて全員が、騙されていたんだろう」
悔しそうに父上は言うけれど、まだ私にはその言葉の意味が分からない。
それどころか、父上以外は誰もなぜそう言えるのか理解が出来ていない様子である。しかし父上は、説明するつもりもないらしい。
自分で考えろと、そういうことだろうか。
「正解です。途中までは上手く行っていたのですが、途中でバレてしまいましたか。残念です」
考える間もなかった。
父上の問題の制限時間は、父上ではなく別の声によって決められてしまったらしい。
この消え入りそうで、なんの音にも例えられない美しい声の持ち主を、私は他に知らない。




